2025年9月30日火曜日

2025年9月30日の聖句

立ち上がり、私たちを助けてください。
あなたの慈しみのゆえに私たちを贖ってください。(詩編44:27)
しかし、あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(1ペトロ5:10)

今日の旧約の御言葉に「贖う」という言葉があります。元の言葉を調べてみると、元来は「奴隷を買い戻す」という意味合いであったようです。神が奴隷を買い戻すようにして私たちを買い戻してくださる、私たちを贖ってご自分のものとしてくださる。
この祈りの言葉は、本当であれば神のものであるはずの私たちが神ならぬものに支配されてしまっている、ということを意味するのではないでしょうか。私たちを支配する時代精神。それは「不安」という名前かもしれませんし、「貪欲」とか「憎しみ」「諦め」などという名前を持っているかもしれません。この世界を覆う時代精神はいろいろな顔を見せながら私たちを支配します。その正体はキリストのへりくだりを忘れさせる高慢、キリストの献身を蔑ろにする怠惰、キリストの真実を否定する虚偽に私たちを引きずり込む悪霊の力です。
ところがその力がどんなに強大であったとしても、神が私たちを贖ってご自分のものとしてくださいます。私たちを苦しみから癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる。神の永遠の栄光へと私たちを招いてくださる。主イエス・キリストの助けを、まっすぐに信じたい。私たちを悪霊の奴隷ではなく神に仕える僕としてくださるキリストを信頼したい。私たちは、これから後はキリストがしてくださったように隣人に仕え、愛し、共に生きることができるものにして頂いているのです。

2025年9月29日月曜日

2025年9月29日の聖句

私はあなたのもの。
私を救ってください。(詩編119:94)
すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロの脇をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。(使徒12:7)

「私はあなたのもの。」私たちも共に祈りましょう。主よ、私はあなたのもの!
私たちが神のものであるという事実は、どのようなときにも変わることがありません。今日の新約の御言葉はペトロが牢に入っているときの出来事を伝えています。例え牢の中にいようとも、ペトロが主のものであるという事実は変わりませんでした。ペトロが牢の中にいるときにも、主の光がその牢を照らし、ペトロに光が射しました。ペトロはいつでも神の光の中にいます。私たちも同じです。私たちは神の光の中を歩んでいく。
今日、私たちに一体何が起こるでしょうか。それは神さましかご存じないことです。それがどのようなことであっても、私たちは神のものとして今日の出来事の当事者になります。神の光に照らされて、私たちは今日一日の旅路に出て行きます。「私はあなたのもの。私を救ってください。」私たちはこの祈りを自分の祈りとしたい。神が救ってくださることを確信したい。
主イエス・キリストの恵みと平安が、今日もあなたにありますように。

2025年9月28日日曜日

2025年9月28日の聖句

今週の聖句:
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

今日の聖句:
主は寄留の者を守る。みなしごややもめを支える。(詩編146:9)
旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気付かずに天使たちをもてなしました。(ヘブライ13:2)

「旅人」と今日の新約聖書に書かれています。旅人というのは、要するによそ者のことではないでしょうか。旧約にも「寄留者」とあります。寄留者こそまさに、外国から来て一時的に寄留している人という意味ですから、社会のよそ者です。その人たちのことを忘れてはならない、もてなしなさい、と神さまは私たちにおっしゃっています。
これははっきりと、今の私たちの社会を覆っている時代精神と戦う言葉であると私は思っています。「よそ者」に対して時々刻々と冷淡な社会になっています。本当に排外的な社会になってしまいました。自分たちに余裕があるときには優しくできたり、相手が役に立つと思えば喜んだりしますが、そうでなくなると途端に憎しみが顕わになります。これまで親切に受け入れてあげようと思っていた人が当然のような顔をしたり、日本の文化を蔑ろにしているように見えたり、こちらの親切につけあがるような言動が見られたり。そのようなことを言いながら、排除の空気が社会に育っているように思います。
聖書が寄留者の権利に敏感なのは、イスラエルがかつてはエジプトで寄留者であり、最初のキリスト者たちが寄留者ばかりであったことと無関係ではないと思います。私たちの信仰は安定ではなく、寄る辺なく弱い者の信仰です。思えば、主イエスは旅の途中の母が飼い葉桶に産んだ子です。主ご自身が旅人でいらしたのです。
旅人を受け入れ、よそ者を愛し、共に生きる。私たちはそうやって神をお迎えします。私たちの常識や当たり前の外から来られる方をお迎えするのです。

2025年9月27日土曜日

2025年9月27日の聖句

恐れてはならない。勇気を出せ。(ゼカリヤ8:13)
(イエスの言葉)あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)

正直なことを申し上げます。わたしは臆病です。怖いものがたくさんあります。しかし聖書を読んで教えられるのは、臆病は褒められたものではない、ということです。「恐れてはならない。勇気を出せ。」主なる神さまは私たちにそう仰せになります。
弟子たちがガリラヤ湖に浮かぶ小舟に乗って逆風に見舞われたときにも、主イエスは「私だ。恐れることはない」とおっしゃいました。復活した主イエスはマグダラのマリアたちのところへ近寄って来て、「恐れることはない」とおっしゃいました。キリストは私たちに「恐れるな」と仰せになります。私たちを「恐れ」という不信仰から解き放ってくださいます。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」私たちには苦難がある。恐ろしい人もいるし、途方に暮れることも多い。しかし、しっかり自分の足で立って、人生の課題に取り組まねばなりません。強い人であれば、自分には頼むべき神など必要ないと考えるかもしれません。
しかし、それで済むのでしょうか。人間としての私たちの力を超えたものは必ず訪れます。それは病かもしれないし、老いかもしれない。思ってもみなかった災禍かもしれません。あるいは、自身や大切な人の死であるかもしれない。そして、そのようなとき神は一向に自分を助けてくれなかった、という思いを抱いている人もいるかもしれません。そうであればこそ、主イエス・キリストに目を向けましょう。一人の人間となり、貧しくなり、罵られ、嘲られ、鞭打たれ、十字架にかけられたお方を見つめましょう。
その方が言われるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」この言葉をしっかりと心に刻みたいと願います。十字架にかけられ、そして復活したキリストを、今日見上げましょう。

2025年9月26日金曜日

2025年9月26日の聖句

多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。
主よ、それでもあなたはわたしの盾、わたしの栄え
わたしの頭を高く上げてくださる方。(詩編3:3~4)
その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。(ルカ17:15)

今日の新約聖書に登場するのは、ある「規定の病」(新共同訳では「重い皮膚病」)を患っていた人です。この病は律法の規定により、非常に辛い立場に立たされていました。この病にかかると町の中で生活することは許されず、他人が近づいてきたら「わたしは汚れています」と叫んで人を遠ざけなければなりません。もしも病が治ったら祭司に体を見せて、それと認められたらやっと社会復帰することが許される。そういう病でした。
主イエスはあるとき10人の規定の病を患っている人を癒やしてあげました。彼らは癒やされた自分の体を見せるために急いで祭司のところへ行きました。一刻も早く家族のもとへ帰りたかった筈です。ところがその中の一人は祭司のところへ行きませんでした。「その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。」主イエスのもとへ帰ってきたのです。主は彼の信仰をたいへんお喜びになりました。
私たちを救ってくださるのは、主イエスさまです。キリストこそ私たちの救いです。例え誰が「彼に神の救いなどあるものか」と言おうとも、キリストの救いの確かさは変わることがない。どのようなときにも、あなたに向けられた神の愛は確かであり、なくなってしまうことがありません。どうぞそのことを信じ、主イエス・キリストの御前で感謝し、キリストに示された神の愛の中を歩んで行かれますように。祝福を祈ります。

2025年9月25日木曜日

2025年9月25日の聖句

(見よ、)神は山々を造り、風を創造され、その計画を人に告げられる方、その名は万軍の神である主。(アモス4:13)
ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。(黙示録19:6)

あなたの神である主が王となられた!
イザヤ書第52章を見てみると、「山々の上で良い知らせを告げる者の足」は美しい、と言っています。その伝令は「あなたの神は王となった」というメッセージを福音として伝えます。「ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。」これこそ聖書が私たちに伝える福音です。
主イエス・キリストは「神の国は近づいた」と宣言して福音を語り出しました。主イエスが宣言した神の国はここに来て、主イエスさま御自身がその王となられる。私たちは神の国の民、イエスを王、キリストとして頂いた神の民です。「神は山々を造り、風を創造され、その計画を人に告げられる方、その名は万軍の神である主。」この世界を造り、治める神が私たちの王。私たちを支配しておられるお方。
この世界にあって、私たちは神の国の民として生きていきます。この世にもたくさんの支配者がいますし、時代を覆う精神性も私たちを強烈に支配します。それは、「憎しみ」や「排外」、「諦め」、「自分さえよければ」、「余裕がない」などいろいろある。しかしそれらは私たちの王ではない。私たちの王は、イエスです。主イエスこそが私たちの王。神の御分でありながらへりくだり、人間として貧しさの極みにおられ、十字架にかけられたお方こそが私たちを救うまことの王です。
「ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。」この賛美を私たち自身の賛美として、今日、真摯な思いで神に献げたい。そのように願います。

2025年9月24日水曜日

2025年9月24日の聖句

我らの救いの神よ、御名の栄光のために私たちを助け
御名のために私たちを救いだし
私たちの罪をお赦しください。(詩編79:9)
その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、すべての民族に宣べ伝えられる。(ルカ24:47)

「御名のために」と言っています。神さまのお名前のために、私たちを助け、救い、罪を赦してください、と懇願しています。神さまのお名前のために、神様ご自身のために。奥ゆかしい祈りです。私のために、私が苦しいから、私が辛いからというのではない。神様ご自身のため、神さまのお名前のために私を救ってください。
神さまの前で私のようなものが祈ること、しかも「救ってください」と祈ることにどれだけ正当性があるのか。そのことを真剣に考えれば考えるほど、何の正当性もないと言わざるを得ません。神さまに対して、堂々と、私の祈りをちゃんと聞いてくださいとは言えない私です。私たちが罪人であるとは、神さまに対して本来全く顔向けできない、ということです。
ですから、この一人の信仰者は「御名のために」と祈ります。神様ご自身のお名前のために私を救ってください。そう祈るより他ない。「その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、すべての民族に宣べ伝えられる。」私たちは主イエス・キリストのお名前による以外に救いがない。救われる根拠がない。それが現実です。
そして、キリストのお名前のゆえに私たちを救ってくださった神の深い憐れみ。これこそ私たちを生かす神の現実なのです。

2025年9月23日火曜日

2025年9月23日の聖句

私があなたがたを、そのすべての汚れから救う。(エゼキエル36:29)
神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました。(1テサロニケ4:7)

今日の旧約聖書に「汚れ」という言葉があります。何を意味しているのでしょうか。
エゼキエル書の文脈を少し見てみると、このようなことが書かれています。「イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、その歩みと行いによってこれを汚した(17節)」。「彼らは偶像によってこの地を汚した」(18節)。「彼らは諸国民のところに行き、そこでわが聖なる名を汚した」(20節)。
「汚れ」は「聖」の対義語ということになりますが、聖書の場合、祭儀(つまりは礼拝)を献げることが禁じられるようなタブーに触れることを意味します。例えば司祭が死体に触れることはタブーであって、それを犯すと一定期間祭儀を司ることができません。そのようにして聖と汚れを区別することで、人間としての営みの中に特別な聖なる時間や空間が生まれる。「聖」は他とは区別され、神のものとされる。「聖」が具体的なかたちで人間の営みの中に現れる。そのために人間は身を清めて臨まなければなりません。それを犯すことは「汚れ」となります。
預言者エゼキエルは、最も犯してはならない究極の「聖」である神ご自身のお名前までもが汚された、と言っています。神のもの、聖なる民として歩まねばならないイスラエルがあろうことか人間が造ったものを神として拝み、聖なるお方を聖なお方として崇めなかった。禁忌を犯して汚してしまった。神の神らしさが損なわれてしまった。それによってイスラエル自身が汚れた民になってしまった。その汚れた民を再び神のものとしよう、というのが預言者エゼキエルを通して神がイスラエルの民に告げてくださった救いです。
私たちは、同じ神によって、イエス・キリストが宣言した神の国の民として頂きました。汚れそのものである私たちを神がご自分のものとしてくださった。だから、聖書は言います。「神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました。」神のものとされた私たちは、神のもの・聖なるものとして生きることが自然です。この聖を犯すことなく生きていこう、と聖書は私たちに語りかけます。

2025年9月22日月曜日

2025年9月22日の聖句

そのみわざは栄光と尊厳とに満ち、その義はとこしえに、うせることがない。(詩編111:3)
私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。(フィリピ3:9)

神さまの義はとこしえであって、失せてしまうことはない、と聖書は言います。神の義です。神がお立てになった神ご自身の義。それは永遠です。
しかし私の傾向を省みてみると、神の義ではなく自分の義こそが永遠であるかのように考えてしまいがちです。自分の正しさこそが普遍的で、まさに「正義」に他ならないと心のどこかですぐに考えてしまう。だから自分の義が曲げられたり邪魔されたりしたと感じると、不正義が横行しているかのような気持ちになってしまいます。
しかしそのようなものが正義でも何でもなくただのわがままでしかないことは誰にでも分かることです。ところが、そうと分かるのに、「自分の義」はどうしようもない力をもっている。
聖書は言います。「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」自分の立てた気になっている義は一瞬で消え失せてしまう独り善がりなものでしかありません。しかしそれとは全く関係なく神がご自分の義を立ててくださった。しかもキリストの真実によって、神ご自身の真実に基づいて。これは私の怒りやわがままに基づくのではない。主イエス・キリストによって現された神の愛に基づく義。永遠なる神の義。神の栄光と尊厳に立脚する義。
そうとすると真の義とは、神が神らしく振る舞われること。そう言っても良いと思います。神が神らしくいらっしゃり、そして私は神に造られた人間らしくいる。そこに正しい秩序があるのだと思います。

2025年9月21日日曜日

2025年9月21日の聖句

今週の聖句:
わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)

今日の聖句:
(ルツの言葉)あなたを見捨て、あなたに背を向けて変えるなどそんなひどいことをさせないでください。あなたが行かれる所に私は行き、あなたがとどまる所に私はとどまります。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(ルツ1:16)
ボアズはルツによってオベドをもうけた。エッサイはダビデ王をもうけた。ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。(マタイ1:5,6,16)

ボアズとルツの間に生まれた息子はオベド、オベドの息子はエッサイ、エッサイの息子はダビデ。そしてこのダビデの家にやがて主イエスがお生まれになった。聖書はそう伝えています。オベドの母ルツは異邦の人でしたが、姑ナオミと共にユダの地へ行き、やがてボアズと結ばれた。そんな不思議な出来事の最初にあったのは、ルツのナオミへの言葉でした。「あなたが行かれる所に私は行き、あなたがとどまる所に私はとどまります。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」
この時ルツは最初の夫を亡くしたばかりです。悲しみで胸が張り裂けるような状況です。そんな中でナオミと共に生きようと決心したその思いを神さまは不思議なかたちで用いてくださいました。
私たちにはこれから起こることは分かりません。私たちの目には自分の人生の今の困り事やここでの悲しさなどが局所的に見えるだけです。しかしそんな中で隣人を愛し、共に生き、歩もうとする小さな決断を神は知っていてくださる。ルツや私たちの考えもしなかったすばらしい祝福に導いてくださる。私たちは神が働いてくださるその事実を信じて、一歩踏み出していきましょう。必ず、私たちが考えている以上にすばらしい出来事を神が始めてくださいます。

2025年9月20日土曜日

2025年9月20日の聖句

あなたは私の神です。
あなたの恵み深い霊が平らな地で
私を導いてくださいますように。(詩編143:10)
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。(ローマ8:14)

「平らな地」と書いてあります。山道や谷ではない。平らな地です。息をつくことのできる場所。開けていて、天を仰ぐことのできる場所。魂が生き返る地。そういうことではないかと思います。
平らな地で、あなたの恵み深い霊が私を導いてくださいますように。ここで「あなたの恵み深い霊が」と言っています。単に「あなたの霊が」というのではなくて、「あなたの恵み深い霊が」です。
まず、この「霊」という言葉はヘブライ語では息とか風といった意味もある言葉です。神様ご自身の息です。その息が「恵み深い息」だと言っている。神さまの息吹を感じるほどに本当に親しく、近くにいる。そして、その息吹の優しさ、恵み深さに心温められ、生き返らせて頂いている。そういう言葉ではないでしょうか。神の恵み深い息吹である神の霊こそが、私を平らな場所に連れて行ってくださるのではないでしょうか。
このことを今朝の新約では「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」と言っています。私たちは神の子にして頂いている。神の恵みに満ちた息吹である聖霊のお働きによって。神の子として私たちは生きている。それが紛れもない事実なのです。

2025年9月19日金曜日

2025年9月19日の聖句

ユダの家に残り、難を逃れた者は再び根を下ろし、上に実をつける。(列王記下19:30)
(イエスの言葉)私につながっていなさい。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ15:4)

今日の旧約聖書は列王記下の御言葉ですが、預言者イザヤの預言の言葉を伝えているところです。この時ユダの国は大国アッシリアからの激しい圧迫を受け、非常に苦しんでいました。ですから「難を逃れた者」と言っていますが、この「難」というのは本当に厳しく苦しい「難」であったはずです。大国の力に翻弄され、責められ、根っ子を引っこ抜かれてしまうような苦難の時代を生きていた。
「ユダの家に残り、難を逃れた者は再び根を下ろし、上に実をつける。」これは、そういう時代に語られた言葉です。
私たちが実を結ぶことのできない難にたたき込まれたとき、しかし神は私たちに実を結んでくださいます。「私につながっていなさい。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。」主イエス・キリストにつながっていましょう。キリストを信じ、キリストが私たちを新しくしてくださることを信頼しましょう。

2025年9月18日木曜日

2025年9月18日の聖句

(主の言葉)なぜ、あなたがたは、糧にもならないもののために金を支払い、腹を満たさないもののために労するのか。私によく聞き従い、良いものを食べよ。(イザヤ55:2)
(イエスの言葉)この人(やもめ)は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れた。(マルコ12:44)

今日の旧約聖書の御言葉は、とても考えさせられる御言葉だと思います。自分が何を求めて生きていて、頂いた収入を何に使って生きているのか。自分がお金を使って得ているのは本当に生きるために必要なものなのか、それとも本当は必要でも何でもないもののために使ってしまっているのか。生きるために必要でも何でもないもののために人生を費やしているのか。改めて自分がどうやって生きているのかを考えさせられます。
新約聖書では、主イエスが神殿でご覧になったあるやもめの話が伝えられています。神殿で、金持ちたちがジャラジャラと音を立ててたくさんの献金を入れていました。ところがそこにひっそりと一人のやもめがやって来て、レプトン銅貨二枚をそっと入れた。「レプトン銅貨」というのは、当時の貨幣では最小単位に当たります。貧しいやもめの僅かの献金、誰も目に留めない、皆から無視されたささげ物です。ところが主イエスは彼女をご覧になって弟子たちにおっしゃいました。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。御名は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
主イエスはご覧になってお気づきになったのでしょう。彼女こそ、本当に大切なもののために自分のお金を献げたのだ、と。このやもめはこの夜のご飯にどうやってありついたのでしょう。どうやって次の日から生きたのでしょう。主は、彼女のために心配し、配慮してくださる神の愛を信じておられました。そしてご自分と同じように神を信頼するやもめをご覧になって、本当にお喜びになったのだと思います。そして、私たちにも同じ信頼に生きるように招いておられます。
今日の御言葉は、あまり極端に受け取って「自分にはできない」と考えてしまうよりも、主イエスとやもめの神さまへの生き生きとした信頼を受け止めたいと思います。私たちは与えられたお金をどう用い、また献げるのか。一度立ち止まって、神様の御前に吟味する時をもちたいと思います。

2025年9月17日水曜日

2025年9月17日の聖句

私が、「もう主を主を思い起こさない
その名によって語らない」と思っても
主の言葉は私の心の中
骨の中に閉じ込められて
燃える火のようになります。(エレミヤ20:9)
同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘儀を語ることができますように。私は、このために牢につながれているのです。(コロサイ4:3)

預言者エレミヤは、神さまと民との間に立って苦しみ抜いた人物です。神に「語れ」と言われ、人々に神に立ち帰るように語りかける。ところが誰もそれを聞こうとしません。誰も耳を貸さず、却って迫害される。それならば、もう主を思い起こすことは止めよう。もう主の名によって何一つ語らないようにしよう。そう考えても無理からぬことです。ところが神の言葉がエレミヤの骨の中で燃える火のようにエレミヤを苦しめる。もう語るまい、もう押しとどめよう。そう思っていた神の言葉がエレミヤの中でエレミヤを焼き尽くそうとしている。語らないわけにはいかなくなってしまう・・・。エレミヤはそうやって苦しみ続けた人です。
預言者エレミヤの苦しみは、聖書の中でもある特別な位置をもっていると思います。主イエスさまの苦しみに連なる苦しみと言っては言いすぎでしょうか。私は、そう言えるのではないかと思います。
使徒パウロも同じ神の言葉を語る務めに生きた人物です。福音を語ったために牢にとらえられ、鞭で打たれました。しかし、「神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘儀を語ることができますように」とパウロは祈ります。
現代の教会でも、御言葉を語る務めを与えられている者たちがその働きにしっかりと仕え、御言葉を大胆に、福音を余すところなく語ることができますように、どうか祈ってください。

2025年9月16日火曜日

2025年9月16日の聖句

天は神の栄光を語る。(詩編19:2)
あなたがたは自分の体で神の栄光を現しなさい。(1コリント6:20)

今日の旧約の御子と鳥羽は「天は神の栄光を語る」と言っています。この詩編の祈りの言葉を最初に口にした人物は、今から恐らく3000年近く昔の人物です。天を仰いで何を見たのでしょう。大地を照らす太陽か、白い雲か、あるいは夜空を満たす星々か。天を見上げて、この天とそこに満ちるものは神の栄光を語っている、大空はこの世界をお造りになった神さまの御手の業を示していると、どんな思いで口にしたのでしょう。
今日、私たちの目を天に上げましょう。普段は横ばかりを見てしまいがちですから。あるいは、自分のへそばかりに目が向いてしまいがちですから。目を天に上げ、大空を見上げて、神さまの御業に目を向けましょう。新しい展望は天から開けてくるのです。
さらに、それだけではありません。神さまに造られたものの一部として、自分自身の存在の意味も明らかになります。「あなたがたは自分の体で神の栄光を現しなさい。」私もまた神に造られたものとして、天と同じく神の栄光を現すものとして生きることができる。そして、そう生きることを神は喜んでくださる。
こういう御言葉を読んで、あまり「私はそう出来ない」と言って落ち込まないようにしましょう。目を天に上げて!神さまを見上げて、大胆に、自由に生きていきたい。そのためにも、私たちのこの目を天に上げましょう。神が今日も生きて働いてくださっている事実に、この目を向けましょう。

2025年9月15日月曜日

2025年9月15日の聖句

(モーセへの主の言葉)私は彼らのために、同胞の中からあなたのよな預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。(申命記18:18)
多くの人はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、大工ではないか。」(マルコ6:2,3)

神はモーセに親しく語り、民のための言葉を彼に託しました。民はモーセを通して神さまの言葉を聞きました。神さまはモーセに約束してくださった。「私は彼らのために、同胞の中からあなたのよな預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。」この言葉の通り、神さまは何人も預言者を立ててくださり、御言葉を語り続けてくださった。しかし、そういう預言者たちはおろかモーセ自身も及ばない方がおられます。主イエス・キリストこそ、まことの神の言葉そのものでいらっしゃる。主イエスにおいて、神は私たちにご自分の御心をすべて現してくださいました。ナザレのイエスこそ、神さまの本音そのものです。
聖書を開くと、結局は誰も「イエス」という神の言葉を受け入れなかったことが分かります。「この人は、大工ではないか」と言って自分たちの先入観や思い込みでしかイエスを見ようとしなかった。弟子たちも、イエスが十字架にかけられるというイエスご自身の言葉を受け入れようとしなかった。人々はイエスを殺し、弟子たちもその時にいたって逃げ出してしまった。イエスが神の御心を現すことを、私たち人間は徹底的に拒みました。神さまの言葉は私たちには邪魔だったのです。
しかし、イエスこそ私たちのための福音です。神さまからの良い知らせです。イエスというお方が到来させてくださった神の国に生きることこそ私たちの救いです。私たちの耳をイエスに傾けましょう。このお方の語る言葉、このお方の存在に私たちの思いも心も向けましょう。このお方は神ご自身ですから、私たちの思いとは異なり、私たちにはイエスというお方の言葉が「非現実的だ」と聞こえてしまう。しかしこのお方にこそ神さまの愛が込められている。イエスという神の言葉があなたに命を与えるのです。

2025年9月14日日曜日

2025年9月14日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)この最も小さなものの一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。(マタイ25:40b)

今日の聖句:
私は主にあって喜び、わが救いの神に喜び踊る。(ハバクク3:18)
まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)

「私は主にあって喜び、わが救いの神に喜び踊る。」私たちの喜び、そして喜びから生まれる賛美を、主なる神さまは受け止め、受け入れてくださる。私たちはそう信じています。しかしそんな私たちの喜びよりももっと大きなものがある、と聖書は言っています。それは、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と書いてあるとおり、父なる神様の喜びです。神さまが私たちの父として、私たちを憐れみ、私たちの存在を喜んでくださって、「死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった」と言って私たちを喜び迎えてくださる。この神の喜びこそ、最も大きな喜びです。
神さまの喜びは、私たちが「まだ遠く離れていたのに・・・走り寄って首を抱き、接吻した」という、本当に大きな、爆発するような喜びです。私たちのために天が揺り動くような喜びです。主イエスの周りにいたファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスさまの喜びが理解できませんでした。神さまの喜びを理解することができませんでした。しかし、神さまは喜んでくださっています。小さな罪人、何の価値もないような私たちが神さまの御もとに帰ることを。今日も、この私のために神さまが喜びを爆発させてくださっている。ここに神さまの御心があるのです。

2025年9月13日土曜日

2025年9月13日の聖句

神に信頼し、恐れることはありません。人間が私に何をなしうるでしょう。(詩編56:12)
こうして、教会はユダヤ、ガラテヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。(使徒9:31)

2000年前に教会が生まれてすぐ、キリストを信じる教会に対する迫害が始まりました。その中でも最初の教会は恐れず、歩み続けました。「神に信頼し、恐れることはありません。人間が私に何をなしうるでしょう。」この詩編の言葉の通りに、最初の教会は歩んでいました。
ここで一度立ち止まってわが身を省みると、自分はそのように信じて生きているだろうかと考えないわけにはいきません。最初の教会の人々が受けたような迫害を自分も受けたら、耐えられないのではないかと正直言って思ってしまいます。
しかし考えてみると、初代の教会を構成していた人たちも元はそういう人々でした。ペトロもヤコブもヨハネも、他の使徒たちも、主イエスが十字架にかけられたときには逃げだし、その後も怯えて生きていました。そんな人たちがどうして迫害の中で信仰を保つことのできる人物になることができたのか。
聖書は、聖霊が彼らに降ったからだ、と証言します。今日の箇所でも「聖霊に励まされて」と書いてあります。聖霊なる神様ご自身が力を与え、励まし、教会の歩みが形づくられていきました。
そうすると、怯えてしまう自分には聖霊が降っていないのかな、とも思えてしまいます。しかし、私に神を求める思いが与えられていること、私も僅かでも神を信じていること、たった一言でも「父よ」と祈ったこと、そのすべてが聖霊のお働きです。私にも、あなたにも、既に聖霊は働いておられる。そのことを信じ、私の内に始まっている神の御業を信じ、我とわが身とを神に明け渡したい。神さまの起こしてくださる新しい出来事は、私の気付かぬところで既に私の内にも始まっている、と信じます。

2025年9月11日木曜日

2025年9月12日の聖句

突然の恐怖にも、おののくことはない。
主があなたの傍らにおられる。(箴言3:25,26)
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。(マタイ14:26~27)

恐ろしい話だと思います。弟子たちがおびえています。主イエスを見て、「幽霊だ」と言っておびえたのです。私たちは、主イエスがここにおられるということを知って、主が共にいてくださるということでおびえてしまう。こんなところに主がおられるはずがない、ここに主が来られるはずがないと、あろうことか主イエスを見て「幽霊だ」と言っておびえてしまう。それは、恐ろしい事実です。
弟子たちはこの時、舟に乗って湖の上にいました。主は一緒にはいませんでした。弟子たちだけで舟に乗った。舟は逆風に悩まされていました。すると、主が水の上を歩いておられるのを見た。弟子たちは主を見て、「幽霊だ」と言って怯えたのです。確かに水の上を歩くことのできる人間なんていないわけで、そういう意味では「幽霊だ」と思うのも無理ないのかもしれません。しかし、主イエスさまが相手です。神の子でいらっしゃるお方です。「幽霊だ」といのは、主を侮っていたということ以外の何ものでもありません。
さらに言えば、主イエスが復活したという事実。主イエスは今も私たちと共にいてくださるという私たちの信仰。これを私たちはどれだけリアルに信じているのでしょうか?主イエスが私たちと共にいてくださるという事実を骨身に染みて知ったとき、私たちも「幽霊だ」と言って怯えてしまうのではないだろうか、主を侮って。
弟子たちの不信仰から生まれたおびえです。このおびえは、恐ろしい。私の不信仰を浮き彫りにする怯えです。主イエスが今生きて働いておられること、主が今日も御業を進めておられること。その事実を信じ、主に期待して生きていきたい、と考えさせられました。主を見くびることなく、信じたい。主がこの不信仰から生まれる畏れを取りさり、まっすぐな信仰を与えてくださいますように。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」そう語りかけ、私たちのおそれを取り去ってくださるのは主イエスさまご自身です。私たちには、私たちを不信仰から解放してくださるお方がおられるのです。

2025年9月11日の聖句

主なる私が語ろうとすることを語り、それを実行する。(エゼキエル12:25)
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、「すべての異邦人があなたによって祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。(ガラテヤ3:8)

「すべての異邦人があなたによって祝福される」と神はあらかじめアブラハムにおっしゃっていた、と聖書は言います。これこそ、「主なる私が語ろうとすることを語り、それを実行する」ことに他ならない、というのです。
得てして私たちの考えることやすることは、神さまのなさることとは正反対であるように思います。区別をし、線を引き、越境することを許さない。アブラハムをご自分の者となさった神の御業をもってユダヤ人と異邦人との間に線を引く。やがてその線は民族的な意味を持って、本当であれば祝福のしるしの筈だった割礼を分断の象徴としました。ユダヤ人と異邦人との間に人間が引いた線は今でも世界を分断し、争いが続いています。
しかし、神さまはアブラハムをすべての異邦人の祝福の基とすることを望んでおられたのです。私たちが互いに憎しみ合い、争い殺すことを願っておられるのではなく、互いの祝福を祈ることを望んでおられるのではないでしょうか。
今日の御言葉を読んで、私は、自分の狭さとそれを乗り越える神さまの御言葉の突破力を感じました。私は狭く留まり、いろいろなものを押し込めてしまうけれど、神さまの愛は広く、すべてを包み込みます。神さまの願い、神さまの御心は、私の物差しで測り、押しとどめてしまうことができない。そのことを改めて教えられました。

2025年9月10日水曜日

2025年9月10日の聖句

私たちの神よ、偉大なる、力強い、畏るべき神よ、契約と慈しみを守られる方よ、あなたの民全体を見舞った困難のすべてを、御前に取るに足りないこととなさらないでください。(ネヘミヤ9:32)
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38~39)

力強い確信の言葉です。こうであったらいいとか、こういうことを期待しているとか、そのようなものではありません。「私は確信しています」と言います。しかも「死も命も」と言っていますから、死ぬときにも変わらない確信です。この手紙を書いたパウロは実際に鞭や石で打たれ、獣に襲われ、難船し、あらゆる命の危機を何度も味わいました。最後は殉教しました。その人が言います。「死も命も…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」と。
この力強い福音への確信の言葉こそ、今日の私たちへの福音です。私たちも同じ神の力強い愛でとらえられています。何者も、神の愛から私たちを引き離すことはできません。神の愛の力の保証は、これがキリスト・イエスによって示されたものである、という事実です。キリストが十字架の上で示してくださった神の愛です。イエスが一番下の下にまでへりくだりきって現してくださった神の愛です。この事実が神の愛の力強さを私たちに保証します。
神さまは、ご自分の民の困難を取るに足りないとはおっしゃいません。私たちを支配し、苦しめるあらゆる者から私たちを取り戻し、ご自分のものとし続けてくださる。この神の愛に信頼して、今日一日を生きていきましょう。

2025年9月9日火曜日

2025年9月9日の聖句

主はあなたがたをご自分の民とされることを喜びとされた。(サムエル上12:22)
(使徒たちは神をあがめて)「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言った。(使徒11:18)

使徒たちは全員ユダヤ人ですので、異邦人が主なる神さまを信じたことが本当に大きな驚きでした。ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子であることを誇りとしていました。神に選ばれ、神のものとされた民であるユダヤ人の一員。まことの神を信じうるのはアブラハムの子である自分たちユダヤ人だけだ、と考えていました。
私たちはよく「キリスト教はヨーロッパの宗教だ」と言います。半分当たっていて、半分はずれていると思います。そもそも主なる神を信じていたのはユダヤ人ですから、ヨーロッパではなく西アジアです。しかし半分当たっているのは、主なる神を信じる信仰は、もともと私たちのものではない、ということです。私たちの地盤とは異なる信仰です。そのことは当たっています。私たちは、主なる神さまを信じる者としては異邦人、よそ者です。
しかしもっとよく考えてみると、ユダヤ人にとってもそれは同じです。神は、アブラハムと出会ったお方です。アブラハムが生み出した宗教ではないし、モーセが開祖でもない。アブラハムにとっても他者であるお方、モーセも知らなかったお方が、彼らと出会ってくださった。主なる神さまは誰にとっても異質なお方です。
そのお方が私たちと出会い、私たちの神となってくださいました。「主はあなたがたをご自分の民とされることを喜びとされた。」ユダヤ人も異邦人も関わりなく、主が私たちの神となってくださり、私たちをご自分の民としてくださいました。私たちが例え誰であろうと、私たちは主のものです。主の民です。主が喜んで私たちを受け入れてくださったのです。

2025年9月8日月曜日

2025年9月8日の聖句

神が慈しみとまことを送ってくださいますように。(詩編57:4)
霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22~23)

「霊の結ぶ実」と聖書は言います。霊、つまり神の霊である聖霊が私たちの内に実りを結んでくださる。私たち自身の実りではありません。私たちの肉が結ぶ実も、この少し前に書かれています。「淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです」と聖書は言います。どれもが身に覚えがあります。私の内から出てくるもの、湧き上がってくるものは、確かにこのようなものばかり。しかし、そういう私の内に神ご自身の霊がすばらしい実りを結んでくださる。「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
そう言われて、どう思われるでしょうか。そういう私ではない、そのようなものは私にはない。そうお思いになるでしょうか。確かにそれは一面ではそうかもしれない。だから、これらは私が結ぶ実、私の肉が生み出す実りではなく、神の霊が結ぶ実りだと聖書は言うのです。私の内にも聖霊が働いてくださっている。それは神さまの側の出来事です。
私たちの「今日」という一日にも、神さまは聖霊の実を結んでくださいます。そのことを信じて、一日を生きていきましょう。神さまの御業に開かれて生きていきましょう。主イエス・キリストの出来事に私たちは預かっている。その事実を信じて、神さまの出来事を待ち望んで歩みたいと願います。

2025年9月7日日曜日

2025年9月7日の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消すことがない。(イザヤ42:3a)

今日の聖句:
私はこの口で、大いに主に感謝し、多くの人の中で、主を賛美します。(詩編109:30)
(イエスは腰の曲がった女の)上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた。(ルカ13:13)

主イエスさまの優しさが溢れ出てくるかのような御言葉です。この人は18年間も腰が曲がったまま伸ばすことができませんでした。主は彼女を呼び寄せ、彼女の「上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた」というのです。どんなに嬉しかったことでしょう。どんなに神に感謝したことでしょう。
これは安息日の出来事でした。安息日は、主イエスさまが私たちを愛してくださったこと、主の優しい御手が私たちの上にも置かれていることを覚えて感謝する日です。主イエスさまの愛を喜んで礼拝する日です。
「私はこの口で、大いに主に感謝し、多くの人の中で、主を賛美します。」私たちも同じように主を賛美します。主に感謝をささげます。主イエス・キリストを、キリストが「父よ」とお呼びになる神を賛美し、礼拝します。私たちにもキリストの手は置かれ、私たちも同じ神の恵みにあずかっています。今日、そしてこの新しい一週間も、神の恵みがあなたと共にありますように。

2025年9月6日土曜日

2025年9月6日の聖句

(神の言葉)私はイスラエルにとって露のようになる。
彼は百合のように花を咲かせる。(ホセア14:6)
(イエスの言葉)だから、あなたがたは、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い煩ってはならない。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。(マタイ6:31,32)

なんと美しい言葉だろうか、と思います。今日の旧約聖書です。「私はイスラエルにとって露のようになる。彼は百合のように花を咲かせる。」神が露としてイスラエルを潤し、百合のように花を咲かせる。
しかしこれは、単に美しいだけの言葉ではありません。注目すべきは、これがホセア書に記録されている言葉だということです。ホセア書は、預言者ホセアの味わった厳しい妻からの裏切りの経験を通して、神さまの御心を私たちに伝えています。ホセアの妻の名はゴメル。彼女は淫行の女と呼ばれ、ホセアの妻でありながら繰り返し他の男のところへ行きました。神はホセアに、そんなゴメルを迎え入れよ、とお命じになります。この一人の預言者の姿を通して、神が私たちを愛しておられること、ところが私たちがそんな神の愛を裏切っていること、その神の苦しみや悲しみのどんなに深いかを私たちに示しています。
そういうホセア書の最後のところにいたって、この言葉が登場しています。「私はイスラエルにとって露のようになる。彼は百合のように花を咲かせる。」これは、神さまのただならぬ決意の言葉ではないでしょうか。神さまは、それでもなお私たちを愛し、私たちを裂かせるための露になると決断してくださっている。私たちの咲かせる花が百合のように美しいものであると神ご自身が宣言してくださる。
ここには神の並々ならぬ愛が詰まっているのです。

2025年9月5日金曜日

2025年9月5日の聖句

真実の言葉を私の口から奪わないでください。(詩編119:43)
神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です。(ローマ1:25)

神は造り主であって、私たちは造られたものに過ぎない。この秩序は絶対です。ですから、私たちが造った物を神とすることはできません。私たちが造った物や、私たちが造ったのでなくても神がお造りになった自然物とか、そういうものを選んで神とするというのは、私たちの側が主体になっています。こちらが拝むべき神を選ぶ。しかしそれは違う、と聖書は言います。神が主権を持って私たちを造り、私たちをお選びになった。あちらが選ぶのであって、こちらが選ぶのではない。神が私たちの神となってくださったのであって、私たちがこのお方を神として選んだのではないのです。
私たちを造り、私たちを選び、ご自分のものとしてくださった神を崇める。これこそ、真理です。造られたものとして造ってくださったお方を崇める。それが自然な秩序です。神を信じること、神を崇めることは、特殊なことや不自然なことではなく、道理に適ったことです。
だから、聖書はそのことを「真実の言葉」と言います。神を信じ拝むことは、真実なあり方です。私たちの本性に適う振る舞いです。神を畏れ、命を与えてくださった方の前にへりくだること。そこにこそ、本当の「私らしさ」があるのです。

2025年9月4日木曜日

2025年9月4日の聖句

あなたを助ける父の神により、あなたを恵まれる全能者による。(創世記49:25)
福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

今日の旧約の御言葉は、25節全体を含めて見ると聖書協会共同訳ではこのように翻訳されています。「お前を助ける父の神から、お前を祝福する全能者から、上は天の祝福、下は横たわる深淵の祝福、乳房と胎の祝福があるように。」
神はあなたの生きているときにも死ぬときにも、あるいはまだ生まれない先から陰府に至るまで、大いなる祝福をもってあなたを助け、恵んでくださる。この神の圧倒的な祝福の事実こそ、福音です。
「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」福音は、神の力!神さまはご自身の力を私たち信じる者すべてを救うために振るってくださいます。福音は力強い神の御業。主イエス・キリストの出来事という力ある御業が私たちを罪と死と悪の力から救いだしてくださった。全能者でいらっしゃる方の力によって私たちは神のものとされました。
ですから、私たちはキリストによって私たちを救ってくださった神の力を信じましょう。「信じる者すべてに救いをもたらす」と書かれています。信じることを、神さまは私たちに求めておられます。神の力を信じ、神が私を救ってくださったことを信じ、神がどのようなときにも祝福してくださっていることを信じる。私たちが信じるのは神であって、自分自身ではない。自分の良さやダメさではなく、神の力強い、聖なる愛なのです。

2025年9月3日水曜日

2025年9月3日の聖句

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。(エゼキエル36:26)
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45)

主なる神さまが約束してくださいました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。」神が私たちに新しい心を与えてくださる。私たちの内に新しい霊を授けてくださる。神さまが私たちを新しくしてくださいます。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と主イエスがおっしゃいました。私たちが敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるとしたら、それは神ご自身の霊が働いてくださっているからという事実以外に理由がないのではないでしょうか。私たちは神ご自身が私の内で働いてくださっているからこそ、キリストに倣って生きることができるのではないでしょうか。
しかし、自分の現実を考えると、敵は憎いし、迫害する者には地獄に落ちてほしいと思ってしまっています。そうすると自分は本当に神さまを信じていると言えるのか、そう言える資格があるのか、と考えざるを得ない。ただ、もう少し考えてみると、そういう自分の心の中で起きているのは、単に相手が憎いとか呪ってやろうとか、そういう思い一色というわけでもありません。憎たらしい思いと、どうやったら愛せるのかという思いもあって、その葛藤、二つの心のはざまでどうしたら良いのか分からないということなのかもしれません。
私は、そのせめぎ合いが既に聖霊のお働きの証拠なのではないかと思います。私たちは本当にどうしようもない罪人でしかないけれど、そんな私の内にも神ははたいてくださっていて、愛の願いを起こしてくださっている。それもまた事実です。そういう神の出来事が私の内にも働き始めていることを信じ、受け入れて、なお「愛をもって生きさせてください」と神に願って歩みたいのです。

2025年9月2日火曜日

2025年9月2日の聖句

(ダビデの言葉)主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。(サムエル下7:18)
リディアと彼女の家族の者も洗礼を受けたが、その時、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言って、無理やり招き入れた。(使徒16:15)

私たちは一体何者でしょう。私の家をたどったとしても、一体それで何者だと言いうるのでしょうか。人の前にはもちろんのこと、まして神様に対して私たちは一体何者だと言いうるのでしょうか。しかも、そんな私であるにも拘わらず「あなたはこれまで私を導かれた」。神が何者でもない私を導き、これまでの歩みを支えてくださった。
今日の新約聖書は、使徒パウロたちがフィリピを訪れたときに出会ったリディアという女性の言葉を伝えています。リディアは紫布を扱う商人でした。紫布は高価ですから、リディアも裕福な人であったと思います。そんなリディアもその家族も主イエスを信じて洗礼を受けました。リディアはパウロたちに「私が主を信じる者だとお思いでしたら・・・」と言います。彼女は、自分の家柄を見てくれとか、裕福な私であることなどについては何も言いません。神様の御前にも、主にあって出会ったパウロに対しても、そのようなことではなく、ただ「主を信じる者」ということだけが意味を持ったのです。
私たちはただキリストを信じ、キリストのものとして生かされている。それだけの存在です。主イエス・キリストのものとされ、主を信じる者として私たちは互いに出会い、神の御前に生かされているのです。

2025年9月1日月曜日

2025年9月1日の聖句

9月の聖句:
神は我らの逃れ場、我らの力。(詩編46:2)

今日の聖句:
今日までしてきたように、あなたがたの神、主にのみ付き従わなければならない。(ヨシュア23:8)
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブライ10:25)

ヘブライ人への手紙が誰の手で書かれ、誰に宛てられたのかは定かではありません。もともとは何通かの別の手紙であったものがつなげられて今日のかたちになっている、と考えられているようです。しかも、それも元は教会で実際に語られた説教から生まれたのではないか、という説があるようです。
手紙の受け手が誰なのか確たることは分かりませんが、迫害下の教会であったことは内容から想像されます。教会で集まって礼拝を献げるということ自体に大きな困難を覚えていた教会で語られた説教。それがヘブライ人への手紙ではないか、と推測されている。
そうすると、今日の箇所の意味もよく分かります。「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。」教会の集会に行くことを止めてしまう仲間たちが実際にたくさんいたのでしょう。礼拝や祈りとは異なる習慣が教会の中にはびこってしまった。しかし「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と呼びかけます。「かの日」というのは、キリストが再び来られる日です。主イエスをお迎えする日を待ち望んで、共に祈って生きていこう、と励ましているのです。
私たちは、私たちの神である主にのみ付き従いましょう。他の何者でもなく、ただ主イエスさまに付き従い、主の憐れみの中を生きていきましょう。ここにこそ救いがあるし、慰めがあります。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年8月31日の聖句

今週の聖句:
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5b)

今日の聖句:
すべて主に寄り頼むものはさいわいである。(詩編2:12)
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。(エフェソ3:12)

「キリストの真実により」です。主イエス・キリストが真実な方でいらっしゃるから、私たちは神に近づくことができる。キリストが私たちを神に近づけてくださったからです。キリストの真実は、私たちを神のものとするということにおいてその力を発揮なさいました。主イエス・キリストの真実が私たちを救ってくださいます。
キリストの真実によって、私たちは「確信をもって、堂々と神に近づくことができます」という、この「堂々と」というのも本当にすばらしい言葉です。コソコソではありません。神さまに怒られないかビクビクしながらでもない。私たちは大胆にも堂々と神に近づくことができる。神の御前で神を礼拝し、祈り、大胆に信じ、堂々と生きることが許されている。ですから、キリスト者とは、自分らしく生きることのできる人、と言っても良いと思います。
主に寄り頼んで生きていきましょう。自分には神に頼る必要なんてない、自分の力で生きることができる。そのように言う人もたくさんいます。自立して生きるということ自体はとても大切なことでしょう。しかし、本当に、何にも寄り頼まずに生きられる人がいるのでしょうか。自分だけの力で、堂々とした確信を死ぬまで持ち続けることができるのでしょうか。キリストの真実に頼るというのは弱い者であるかのようで、実は自分の弱さに真摯に向き合い、自分の力を超えたものに対する誠実な畏れをもって生きる強いあり方ではないでしょうか。
キリストの真実があなたを生かしています。今、もう既に。あなたが生きているのはあなたの内に生きるキリストの真実によるものなのです。

2025年10月17日の聖句

私はあなたを行かせません、あなたが私を祝福してくださるまでは。(創世記32:27) イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。(マタイ19:13) 「私はあなたを行かせません、あなたが私を祝福してくださるまでは。」本当にすばらしい言葉です。なんとしてで...