2025年6月30日月曜日

2025年6月30日の聖句

なぜ、神は労苦する者に光を与え、魂の苦しむ者に命を与えるのか。死を待ち望んでも、それは来ない。(ヨブ3:20~21)
あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主がもたらした結末を知っています。主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。(ヤコブ5:11)

今日の旧約聖書の御言葉はヨブの言葉です。なんと深い絶望の言葉でしょうか。ヨブは無垢な正しい人で信仰者としても大変立派な人物でしたが、ヨブ自身からしたら何の理由もなく、財産も子どもたちも失い、自身もひどい皮膚病になってしまいました。妻からは神を呪って死んだほうがましだと言われました。その人が言うのです。「なぜ、神は労苦する者に光を与え、魂の苦しむ者に命を与えるのか。死を待ち望んでも、それは来ない。」自分がこうして生きていること自体が自分にとっては絶望だ、と言います。自分は死を望んでいる。それなのに死ぬことができない。こんなに労苦している者に神が光を与えて生かし続けている。こんなにも残酷なことはないではないか。それが、ヨブの絶望です。
ヨブの苦しみは、本当に深いところで主イエスの苦しみに通ずるものがあると思います。理由もなく苦しみ、その苦しみからの解放が全く見えない。生きていること自体が絶望だと言わねばならない。十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた主イエスの御心に通じる嘆きです。
これほどの苦しみを前にして、聖書は言います。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主がもたらした結末を知っています。主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。」なぜ、このように言うことができたのでしょう。その理由は、やはり、主イエスにしかないと信じます。神に捨てられた主イエスの絶望は、ヨブよりもなお深かった。主はヨブが這いつくばる地べたよりももっと深い陰府にまで降って行かれた。主イエス以外に、本当に神に棄てられた人は他にはいません。私たちのどんなに深い絶望の中にもキリストはおられる。そして、どん底でキリストが主のあわれみを、その慈しみを見せてくださる。
絶望の底にうずくまり、一つも望みが見えず、生きていること自体が絶望を深くするときにも、キリストはそこにおられます。ただそのことだけが、私たちの慰めです。

2025年6月29日日曜日

2025年6月29日の聖句

今週の聖句:
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の聖句:
主はもろもろの民の計らいを絶たれた。(詩編33:10)
(ガマリエルの言葉)あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい。あの計画や行動が人から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない。(使徒5:38~39)

今日の新約に登場しているガマリエルは当時のたいへん高名な律法学者で、ユダヤ議会の議員でもあり、多くの人から尊敬されていました。ファリサイ派の教師であり、パウロの師匠でもありました。
これは、ペトロらがイエス・キリストの福音を宣べ伝えているのを咎められ、イエスの名によって語るなと厳しく命じられ、しかしその命令を無視して神殿の境内で福音を語って逮捕され、最高法院で裁かれていたときのことです。ガマリエルは怒り狂う議会で、一人冷静に言いました。「あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい。あの計画や行動が人から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない。」彼らのことは神に任せよう、われわれが判断し、裁くのはもう止めよう、と言ったのです。
この人は大変な知恵の持ち主であると思います。私たちは、とかく自分の意見が絶対だと思いがちですし、それに従って簡単に人を裁いてしまいます。ガマリエルの冷静さと知恵は、私たちにとってはとても大切なメッセージではないでしょうか。
「主はもろもろの民の計らいを絶たれた」とあります。主なる神さまの御支配に信頼し、私たちは軽率に他人を裁いたり責めたりすることなく、自分自身も他者のことも神にお任せしたい、と願います。

2025年6月28日土曜日

2025年6月28日の聖句

主は弱い者たちを正義によって裁き、地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。(イザヤ11:4)
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11:4~5)

洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けましたが、そのヨハネ自身がかつて言っていました。「私は、その(イエスの)履物をお脱がせする値打ちもない。」ヨハネはイエスこそ神の愛する御子であり、むしろ自分の方がイエスに願って洗礼を授けて頂くべき者に過ぎないと知っていましたし、そのことを信じていました。
しかし、その後の主イエスの歩みは、もしかしたらヨハネが思い描いていたものとは違っていたのかもしれません。いくら期待して待っても、華々しい活躍が聞こえてこない。やがてヨハネはヘロデに捕らえられます。それで獄中のヨハネは自分の弟子をイエスのところに遣わして「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねました。ヨハネは分からなくなってしまったのだと思います。いつまで経っても「ヘロデの支配」は終わらない。本当にこのお方に期待して待ち続けて良いのだろうか?来たるべき方は、もしかしたら別にいるのではないだろうか?
私たちが抱くのと同じ問いをヨハネも抱いています。本当にイエスを信じ続けて良いのか?現代のヘロデたちが支配するこの世界はどんどん悪くなるばかりではないか。イエス様を信じることや神さまに祈ることよりももっと他にするべきことがあるのではないか?他の救いがこの世界には必要なんじゃないか?
そんな私たちの問いに、主イエスはお答えになります。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」現に、キリストが神の国をもたらしてくださっている。キリストが宣言した神の国がもう始まっている。この事実を見なさい、と主イエスはおっしゃいます。私たちの目にはヘロデの支配しか見えません。私たちには憎しみや欲に覆われた世界の様相しか目に入ってきません。しかし主イエスは、キリストの宣言した神の国が始まっているしるしがこんなにある、それを見て、信じなさいと私たちにおっしゃいます。あなたにも、キリストがお始めになった神の国のしるしが見えているはずだ、とキリストご自身が言われるのです。

2025年6月27日金曜日

2025年6月27日の聖句

主は命を奪い、また命を与え、陰府に下し、また引き上げます。(サムエル上2:6)
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)

今から460年ほど前に生み出された信仰告白であるハイデルベルク信仰問答にはこのように書かれています。「生きている時も、死ぬ時も、あはたのただ一つの慰めは、何ですか。」この問いに対してこのように答えます。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」
今日私たちに与えられている御言葉は、まさにこの信仰問答の告白の背後にある御言葉です。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」この事実こそが私の慰めだ、とハイデルベルク信仰問答は言います。生きているときにも慰めだし、死を迎えるときにも、私はキリストのものという事実こそが私の慰めであり続ける。そう告白するのです。
私はキリストのもの。この事実が意味しているのは、ハイデルベルク信仰問答の続きによれば、キリストがご自分の尊い血潮によって私の一切の罪のために支払ってくださり、私を悪魔の支配から救いだしてくださった、ということです。キリストの血によって私は神のものとされた。だから、私の頭の毛一本でさえも神の許しがなければ地に落ちることはない。それだけでなく、すべてのことが、当然、私の祝福に役立つようになっている。だから私はこれから後は喜んで主のために生きることができる。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」
私たちが今日という日を生きていくために、「私は主のもの」と自らに語りかけ、神のものとされたことを喜び、また慰めとしましょう。この事実はどのようなときにも変わることのない、確かなことなのです。

2025年6月26日木曜日

2025年6月26日の聖句

(モーセへの主の言葉)民を私のもとに集めなさい。私の言葉を聞かせよう。この地上で生きているかぎり、彼らは私を畏れることを学び、それを子らにも教えるだろう。(申命記4:10)
だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。(2テモテ3:14~15)

私たちは聖書を通して語りかける神の言葉に聞き、信仰生活を送っています。聖書こそ、私たちの信仰の根拠であり、要です。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。」私たちは聖書の御言葉によってキリストへの信仰を頂く。キリストが私たちに与えてくださった救いに、信仰を通してあずかっています。聖書こそが、キリストが宣言なさった福音を私たちに届ける。聖書の御言葉によって、私たちの信仰が成り立つのです。
聖書は、私たちが生きているときにも死ぬときにも聞くべき唯一の神の言葉です。私たちは聖書に並び立つほかの言葉を求めません。この世の知恵も、もっともらしい言説も、私たちを救いはしない。キリストとその御言葉、すなわち十字架の言葉だけが私たちを救う。それが私たちが学んできて確信した事柄です。ここに留まりましょう。

2025年6月25日水曜日

2025年6月25日の聖句

遠方の人々が来て、主の宮を建てる。(ゼカリヤ6:15)
あらゆる国々の民が来てあなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが明らかにされたからです。(黙示録15:4)

今日の新約聖書は、ヨハネの黙示録の御言葉です。ローマ帝国による迫害の時代、パトモス島に流刑にされたヨハネが見た幻を書き留めたものです。たくさんの教会の仲間が迫害され、殺され、苦しめられていました。それはこの時代だけではなく、2000年間でたびたび起こった出来事でもあります。
潮田健治先生に洗礼をお授けになったのは、当時の希望が丘教会の竹入悦夫牧師。そのお父様の竹入高(たかし)牧師は、太平洋戦争の時代に京都の教会に仕えておられました。ところが1942年に逮捕され、獄中で感染したと思われる結核が悪化し、1年3ヶ月後に突然釈放されたかと思うとすぐに命を落としたそうです。この時代はキリスト教会が厳しく迫害されており、それに抵抗し続けることができなかった教会もたくさんありました。しかし竹入牧師は最後までキリストへの信仰に生き、殉教しました。
ヨハネも、竹入牧師も、なぜ信仰に生きぬくことができたのでしょうか。ヨハネが見た幻にその秘密があるのだと思います。「あらゆる国々の民が来てあなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが明らかにされたからです。」今は悪しき時代、苦しみの時代。しかし、必ず神の正しい裁きが明らかにされるし、必ずあらゆる国民が神の御前にひれ伏す日が来る。神が見せてくださったその幻を仰ぎ、この神の御支配は、キリストが来てくださった今や既に始まっていることを信じていた。この将来の救いが「今」に迫ってきているから、キリストへの信仰に行き続けることができたのではないでしょうか。
私たちも同じ信仰に生かされているのです。

2025年6月24日火曜日

2025年6月24日の聖句

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼るな。どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。(箴言3:5~6)
(ペトロのイエスへの言葉)よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。(ヨハネ21:18)

シモン・ペトロはキリストの福音を宣べ伝えるためにすべてを献げました。言い伝えられているところによると、ローマで逆さ十字架にかけられて殉教したそうです。迫害に遭ったり殉教したりすることは、人間的に考えれば絶対に避けたいことです。もしかしたら、ペトロにもそういう場から逃げようと思えば逃げることもできたかもしれません。それでもペトロは迫害の嵐が吹き荒れるローマの都で宣教し、その命を献げました。そんな日々にペトロには主イエスの言葉が響き続けていたはずです。
「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、いきたくない所へ連れて行かれる。」
自分の分別に頼っていれば、その道を避けるためにあらゆる手を講じることもできたでしょう。ところがペトロは主に信頼し、主がまっすぐにしてくださる道を歩みました。キリストの御支配の中を、すなわち神の国を歩みました。
私たちの今日歩む道は、どのような道でしょうか。私たちの分別は、しばしばこの世の知恵に根ざします。しかしキリストの知恵、神の知恵が開く道、神の国の道があります。今日、私たちはどのような道を歩むのでしょうか。

2025年6月23日月曜日

2025年6月23日の聖句

主はすべてのものに恵み深く、その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。(詩編145:9)
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。(ローマ8:21)

今日のローマの信徒への手紙に出てくる「被造物」というのは、人間以外の神に造られたもの全部を指しています。神に造られた世界全体が、滅びから解放される日を待ち望んでいる。神の子どもたちの栄光の自由にあずかる日を待っている。この「神の子たち」というのは、神を信じる人間たちのこと。神がキリストによって人間を救い、ご自分の子としてくださる。その栄光は人間だけには留まらず、すべての造られたものに及んで、この世界そのものの救いとなる。本当にスケールの大きな救いを、ここで使徒パウロは語り出しています。
それは、「主はすべてのものに恵み深く、その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ」と言われているとおり、主なる神さまの恵みがどこまでも深いからです。神の憐れみの届かない場所も、神の恵みの外にいるものもいない。すべての造られたもののために伸ばされる神の御手は、私たちすべてのものを包み込んでくださいます。
この世界にあるすべてのものは神に造られたもの。私たちも、すべての生きているものも、それらを取り巻く環境も、すべてです。私たちが共に生きる家である自然環境、共に神の救いを待ち望む私たち造られたすべてのものを、同じ家に生きる仲間として大切にし、尊び、そこに現れている神の愛の手を感じ取るみずみずしい感性を養いましょう。この世界には神の愛が溢れている。あなたにはそれが見えますか?

2025年6月22日日曜日

2025年6月22日の聖句

今週の聖句:
あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。(ルカ10:16a)

今日の聖句:
主は、昼は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らを照らされた。(出13:21)
(イエスの言葉)あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えているが、聖書は私について証しをするものだ。(ヨハネ5:39)

聖書は主イエス・キリストを証言するものであって、聖書それ自体の中に永遠の命があるのではない。主イエスご自身がそのようにおっしゃっています。私たちは聖書の御言葉を聞き、その福音を通してキリストと出会います。キリストこそ、私たちのための永遠の命です。キリストという神の福音が成就したお方を、私たちは聖書によって知り、このお方と出会う。ここに聖書の中心があります。
ですから、その中心を外してしまうと聖書の意味が分からなくなってしまいます。キリストとその福音こそ、聖書のメッセージです。
荒野を旅する神の民を、昼は雲の柱が導き、夜は火の柱が照らしました。神が民を約束の地へ連れて行くために。それと同じように、聖書の御言葉は私たちを導き、照らして、キリストの御許へと連れて行きます。キリストのもとにあるすべての祝福と永遠の命を私たちに得させるために、聖書の語り出す福音の言葉に耳を傾けて歩んでいきましょう。
今日は日曜日です。私たちに語りかけてくださる神さまの御言葉に耳を傾け、心を静めて福音の御言葉に聞き、新しい一週間を始めていきましょう。

2025年6月21日土曜日

2025年6月21日の聖句

主の中の主に感謝せよ。
ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。
慈しみはとこしえに。(詩編136:3,4)
群衆は、フィリポの行った数々のしるしを見て、こぞってその話に耳を傾けた。町の人々は大変喜んだ。(使徒8:6,8)

今日の旧約聖書に「主の中の主」という言葉があります。旧約聖書では「主」という日本語に翻訳されている言葉が、代表的なところでは二つあります。一つは、神さまのお名前を表す固有名詞です。そしてもう一つ、今日の箇所で使われているのはこちらですが、一般名詞で「主」と訳される言葉があります。こちらは主人とか王とか、主(あるじ)とか、そういった意味を持つ言葉です。ですので、今日の「主の中の主」というのは、私たちのまことのご主人、まことの王、私たちのまことの主(あるじ)という意味になります。「主人」と呼ばれるものは世の中にたくさんあれど、神さまこそがまことのご主人様に他ならない。
ところで少し話が変わりますが、今日の新約聖書はフィリポがサマリアの町で伝道したときの様子を伝えています。もともと、サマリアの人々は主イエスに見向きもしませんでした。イエス様がユダヤ人だからです。サマリア人とユダヤ人はとても仲が悪かったのです。ところがイエス様の十字架と復活、昇天の後、フィリポがサマリアの町へ伝道に行ったときには彼の言葉にサマリアの人々が耳を傾けました。キリストの福音を聞き、町の人々は喜びました。
イエス様こそ主の中の主。サマリアの人々はフィリポの言葉を通してその事実を知り、喜んで信じました。私たちも同じです。例えこれまでどんなにキリストから遠く離れて生きてきたのだとしても、自分の人生の主人は自分自身だと思ってきたのだとしても、キリストの福音は私たちを捕らえます。神のものとします。キリストに耳を傾け、喜んでこれからの人生を生きていきたい。そう願います。

2025年6月20日金曜日

2025年6月20日の聖句

私の方へ向き直り、私に恵みを与えてください。なぜなら私は孤独でみじめだからです。(詩編25:16)
ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。(マルコ10:47)

「私を憐れんでください。」これこそ私たちの祈り、私たちの願いです。
代々の教会で、無数の人々が同じように祈ってきました。「私を憐れんでください。主よ、憐れんでください。」ただ神に向かって、神の憐れみを求めて、祈りが捧げられてきた。なぜなら、「私は孤独で惨めだからです。」神様の御前で自分を省みるなら、私たちはそのことを深く思わないわけにはいきません。惨めで、救いようのない私。ただ神の恵みを求め、神の憐れみをこいねがうのでなければ生きられない私。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」
キリスト者の詩人八木重吉がこのような詩を詠んでいます。
「てんにいます おんちちうえをよびて おんちちうえさま おんちちうえさまととなえまつる 入きたるいきにてよびたてまつる われはみなをよぶばかりのものにてあり」
この一人のキリスト者が息を吸いながら、そして恐らく吐きながら、「御父上さま」と神を呼び、その憐れみを求めて祈ったのと同じように、私たちも祈りましょう。「御父上さま、神さま、私を憐れんでください」。必ず天の父はこの祈りを聞いてくださり、私たちに応えてくださいます。私たちを神の憐れみによって、生かしてくださいます。

2025年6月19日木曜日

2025年6月19日の聖句

主なる神は言われる。私はすでに集められた者たちに、さらに人々を集めよう。(イザヤ56:8)
(イエスの言葉)「御国のこの福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:14)

すべての民族に、神の国の福音が宣べ伝えられる。すべての人への証しとして、全世界へ。そして、その後に終わりがくる。キリストはそう言われます。このキリストの言葉からすると、神さまが願っておられるのは何よりもすべての人が神の国の福音を聞くこと。すべての民族に宣べ伝えられること。世界中に福音が届けられること。それが第一のことであって、世界の終わりについてはその時まで待っておられる、ということなのではないでしょうか。
「主なる神は言われる。私はすでに集められた者たちに、さらに人々を集めよう。」ここで「さらに」と言われています。今、ここにいる人だけではない。私たちだけではない。さらに人々を集めよう。主なる神さまのこの情熱が私たちの福音伝道への情熱なのではないでしょうか。
神様ご自身が一人でも多くの人に福音を聞いてほしいと願っておられるというのは、それだけ私たちに対して深い関心をお持ちだということに他なりません。私たちがキリストの福音を信じて幸いに生きることを神さまが望んでおられます。私たちの心を、主は欲しておられる。神さまの私たちによせる思い、私たちの隣人に向けておられる熱い思いを、私たち自身の心としたいと願います。

2025年6月18日水曜日

2025年6月18日の聖句

万軍の神、主よ。
あなたの言葉は私の心の喜びであり慰めです。
私はあなたの名で呼ばれているからです。(エレミヤ15:16)
フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びに溢れて旅を続けた。(使徒8:38~39)

「フィリポは宦官に洗礼を授けた。」教会は、その最初の時からキリストに教えられたとおりに洗礼を授けてきました。この宦官も聖書の福音をフィリポから聞き、洗礼を受けました。私たちと同じように、洗礼を受けてキリスト者になりました。
私たちは父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられました。神のものとされたしるしを付けられました。洗礼を授けられた私たちは、キリストのもの、キリスト者と呼ばれています。キリストのお名前で呼ばれる者にして頂きました。
「万軍の神、主よ。あなたの言葉は私の心の喜びであり慰めです。私はあなたの名で呼ばれているからです。」
「キリスト者」と、キリストのお名前で呼ばれることが私の喜び!私たちもエレミヤと共にそう告白する一日を過ごしたいと願います。主なる神さまの、三位一体の聖なるお名前で洗礼を授けられ、私たちは神のものとされました。神の物であることを誇りとし、神のものとして今日の一日を生きていきましょう。キリストのお前で祈り、聖霊の助けの中で神をお呼びし、父なる神さまの慈しみの中で歩んでいきましょう。

2025年6月17日火曜日

2025年6月17日の聖句

私は神、あなたの父の神である。私はあなたと共にエジプトへ下り、また必ずあなたを導き上る。(創世記46:3,4)
ペトロが、「このとおり、私たちは自分の物を捨てて、あなたに従っていまいりました」と言った。イエスは言われた。「よくよく言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は誰でも、この世でその何倍もの報いを受ける。」(ルカ18:28~30)

今日の旧約聖書の御言葉は、主なる神さまがヤコブにおっしゃった言葉です。ヤコブはイサクの子、アブラハムの孫です。父や祖父と出会い、カナンの地を与えると神が約束してくださった神さま。ヤコブ自身も神と出会い、神と共に生きてきました。神の約束を信じて。そのヤコブが思わぬことに約束の地、カナンの地を離れることになります。そこにいたる物語は創世記後半の長い話の最後の結論なので、ここで繰り返すことはできません。ただ一つ確かなことは、ヤコブにとっては思ってもみなかったことであり、恐らく大きな戸惑いがあったに違いない、ということです。アブラハムやイサクに、そしてヤコブ自身に出会ってくださった神が与えると約束してくださった地を離れるのですから。
このヤコブの出来事は、私たち信仰者が旅人だということを本当に鮮やかに示していると思います。私たちは旅人であって、この世では寄留者です。例え神が約束してくださった地であったとしても、一時的に離れ、手放さなければならないときが来るのです。しかしそれで神の約束が無効になったわけではない。私たちには今ここしか見えませんから、不安が生まれますし、神さまの御心が分からなくなることもありますし、自分の旅路について「これでいいのか」と自信が持てないこともいくらでもあります。しかし、私たちはその時その時神に真心から従うしかないのだと思います。物や人間にしがみつくのではなく、ただ神を信じ、キリストの後に従って生きていく。それが私たちの旅人としての信仰生活なのではないでしょうか。
今日も、あなたの信仰の歩みに祝福がありますように。

2025年6月16日月曜日

2025年6月15日の聖句

柔らかな言葉は憤りを鎮め、傷つける言葉は怒りをあおる。(箴言15:1)
キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私たちから聞いた健全な言葉を手本としなさい。(2テモテ1:13)

今日は「言葉」が問題になっています。柔らかな言葉。傷つける言葉。健全な言葉。そう、私たちはいろいろな言葉に取り囲まれています。柔らかな言葉もあれば、傷つける言葉もあります。聖書がいうとおり、柔らかな言葉に接すれば憤りは鎮められますし、傷つける言葉は人の怒りをあおってしまいます。言葉を巡るいろいろな思いは、私たちもよく知っています。やさしい言葉に救われたことも、心ない言葉に傷つけられたこともある。愛のこもった言葉を口にできたことも、後から後悔してもしきれない言葉を口に上らせてしまったこともある。誰でも言葉を巡る悲喜こもごもを知っています。
今日の新約聖書は「テモテへの手紙」という使徒パウロが書いた手紙です。パウロは語りかけます。「キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私たちから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」パウロはすごいな、と思います。こんなことを言えてしまうなんて。「私たちから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と言っています。どうしてパウロには「私を手本としなさい」と言えたのでしょう。それは、パウロ自身が自分の信仰の先輩から聞いた健全な言葉をキリストへの信仰と愛をもってまねしてきたからなのだと思います。そんな経験を踏まえて、パウロは言います。私のように語ればいい。そうしたらあなたも健全な言葉を語ることができる。その秘訣は、主イエス・キリストへの愛と信仰に生きること。キリストの愛と憐れみを骨身に染みて知ること。キリストの赦しがなければ生きられない私であることを痛感すること。そのことを深く知ったとき、目の前にいるこの人も、同じようにキリストが愛している人であり、キリストの大切な存在なのだと気付くはずだ。そこから私たちの語り合う言葉の健全さが生まれる。パウロはそう言っているのではないでしょうか。
キリストへの愛をもって、今日の一日を歩んでいきたいと願います。

2025年6月15日日曜日

2025年6月15日の聖句

今週の聖句:
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にありますように。(2コリント13:13)

今日の聖句:
真実の裁きを行い、互いに慈しみ、憐れみ合え。(ゼカリヤ7:9)
主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。もしかすると、神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれません。(2テモテ2:24~25)

主イエスさまは、本当に優しく柔和なお方です。今日の御言葉は、私たちも主のやさしさに似た者になるように、と促しています。
主は私を受け入れ、私のことも神の子にしてくださいました。主は私を愛し、私を神のものとしてくださいました。私がどんなに罪深く、主の愛を裏切り、蔑ろにするものであっても、主は私を愛し続けてくださいました。主が向けてくださった優しさと柔和さに私も生きるようにと聖書は私たちを促します。
神さまは、私たちの前にいる一人の人にも働いてくださっています。私の目から見ると、その人は全然なっていなかったり、不信仰だったり、罪深かったりするかもしれない。しかし主がその人を愛し、この人のために十字架におかかりになりました。私たちには他の神の子を裁く権利はありません。キリストがこの人のために死んで復活したことをなかったことにすることは許されていません。裁くためではなく愛するために、私たちも神の僕にされました。キリストの愛に生きるようにと神は私たちをご自分の僕にしてくださいました。
ただひたすら、悔い改めて、この原点に立ち帰りたいと願います。キリストの憐れみにすがります。

2025年6月14日土曜日

2025年6月14日の聖句

女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。(創世記3:6)
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。(1ヨハネ2:17)

蛇が女を唆した言葉は、これです。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」と書いてありました。木の実は美味しそうだし、見た目も麗しく、いかにも賢くなりそうな魅力にあふれていた。見れば見るほど、女が感じていた誘惑は強くなっていったに違いありません。これを食べれば神のようになれる。善悪を知ることができる。そう、神は嘘をついていたのだ。これを食べても死ぬことなんてない。むしろ、神は私がこの実を食べれば善悪を知って賢くなることを知っていて嘘をついたのだ。神は私が賢くなることを妬んでいるのだ。神から解放されなければ、私は自由にはなれない。きっと、彼女はそのようなことを考えたのだと私は思います。
今日の新約には「世も、世の欲も、過ぎ去ります」と書いてあります。女の思いは「世の欲」だということになるのでしょう。他人を出し抜いて自分が賢くなろう、自分の思いに従って善悪を判断しよう。私の賢さでこの世を建て直してやろう。そういう思いは、欲です。神さま抜きだからです。神抜きの賢さは、ただ自分の願望や理想像を押しつけるだけの、甚だ罪深いただの小賢しさです。
「しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります」。私たちは自分の思う「賢さ」を追い求め、それに頼るのか。それとも、神の御心を行うのでしょうか。一度立ち止まって、考え直してみることは意義深いことです。

2025年6月13日金曜日

2025年6月13日の聖句

主にとって不可能なことがあろうか。(創世記18:14)
11人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。(マルコ16:14)

主イエスさまが復活したとき、弟子たちはその知らせを信じませんでした。聖書はそのことを赤裸々に報告しています。
「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このこと(イエスの復活の知らせ)を知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たことを聞いても、信じなかった」(マルコ16:10,11)。
「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」(マルコ16:12,13)。
そして、今日の箇所では主イエスご自身が11人のところに来てくださった。そして、彼らの不信仰とかたくなな心とをおとがめになった、というのです。これはある意味意外なことではないでしょうか。十字架に掛けられた主イエスがお甦りになり、愛する弟子たちと再会を果たした。そこで再会の喜びを分かち合い、お互いの無事を確認する・・・ということではなかったのです。主イエスは彼らの不信仰を見逃さず、これを咎めたのです。
主イエスからご覧になったとき、私たちの不信仰は決して見過ごしたりなあなあにして済ませてよい問題ではない。必ず問題にし、咎め、是正されなければならない大きな問題です。私たちは、私たちに出会ってくださるキリストに信仰で応えるからです。復活して私たちのところへ来てくださるキリストの福音を聴き、信じることで私たちはキリストに応える。だから、信仰が弱く、小さくなってしまうことを主イエスは「どうでも良いような小さいこと」とはお考えにならない。私たちに、ほかの何でもなく信仰を求めておられるのです。
信仰をもって主に向かいましょう。信じましょう。ここに救いがある。ここに私たちのための神の愛がある。そのことを信じて、キリストに目を上げましょう。

2025年6月12日木曜日

2025年6月12日の聖句

あなたがたはあなたがたの神、主に従って歩み、主を畏れ、その戒めを守り、その声に聴き、主に仕え、主に付き従わなければならない。(申命記13:5)
あなたがたはこの世にあって灯火のように輝きます。命の御言葉を固く保つことによってです。(フィリピ2:15~16)

私たちが私たちの神である主の御言葉に聞き、それに従って生きるとき、私たちは「この世にあって灯火のように輝く」。美しい御言葉です。今日の新約聖書の御言葉は、ドイツ語の聖書を『日々の聖句』日本語版の作成者が翻訳をしたものです。「灯火」という言い方がすごく良いな、と思います。聖書協会共同訳では「星のように輝く」と翻訳しています。これもまた美しい翻訳ですが、「灯火」というのもなかなか味わい深い言葉だと思います。星にしても灯火にしても、いずれにしても、強くて明るい輝きというよりも、もっとささやかで、ほのかな輝きです。しかし暗闇の中では確かな輝きであり、見る者に勇気を与える光です。
命の御言葉、主イエス・キリストの福音の言葉を固く保つことで、私たちは世の灯火となる。福音、それは私たちを新しい存在にするキリストの約束です。私たちはキリストを信じ、キリストに従い、新しい人生を生き始めます。「あなたがたはあなたがたの神、主に従って歩み、主を畏れ、その戒めを守り、その声に聴き、主に仕え、主に付き従わなければならない。」そう命じられているとおり、私たちは私たちの主であり師であるキリストに付き従って生きる。そうやって生きることができる者にして頂いている。私たちはそう信じています。
私たちに絡みつく罪の力は強いです。私たちを蝕む悪の力はしつこいです。しかしキリストの力はもっと強く、粘り強い。キリストが私たちを新しく自由な者にしてくださっている。この救いの事実を信じて、新しい命をもって生きていきましょう。

2025年6月11日水曜日

2025年6月11日の聖句

六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。(出エジプト20:9,10)
イエスは人々に言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4)

主なる神さまが私たちの生活に一定のリズムを刻んでくださいました。七日間という一週間の区切りと、その内の六日は働き一日はどのような仕事もしない特別な日とする。神がお定めになった独特のリズムです。
五日でも十日でも良いので、何らかの周期を守るという話ではありません。あるいは、何曜日でも良いから週に一日は休むという話でもない。今の私たちで言えば日曜日という特別な日を覚えて、その日を聖なる日とし、普段の仕事から離れて神の前に出る。それが「安息日」の掟です。
もちろん、私たちが今生きている社会は古代社会よりもずっと複雑ですし、「キリスト者だから日曜日は休みます」と言っても必ずしも通用するわけではありません。さらに言えば、私たちは日曜日でも働いてくださっている方たちのお陰で生活できています。警察も消防も電車も病院も、日曜日でも動いています。それらを使って教会に行くし、働いてくださっている方たちのお陰で私たちの生活の安全が守られています。
それでもなお一週間の中に特別な日があり、その日は神のものだというのは私たちにとっては欠かせない「福音」です。この日が定められていることは、良い知らせです。この日が善を行うべき日であり、命を救うべき日であるからです。何よりも神ご自身が私たちのために安息日にも、真夜中にも働き続けてくださっています。私たちを救うために。この神の愛に促されて、私たちも愛の業に仕えるようにと神に遣わされている。私たちは日曜日のそのことを覚え、礼拝し、新しい心で世界へ派遣される。キリストの後についていくために、私たちは日曜日を大切にします。

2025年6月10日火曜日

2025年6月10日の聖句

主はわが岩、わが城、私を救い出す力。(サムエル下22:2)
(パウロの手紙)主はそばにいて、私を強めてくださいました。それは、私を通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるためです。そして、私は獅子の口から助け出されました。(2テモテ4:17)

使徒パウロという一人の人物を通して、神さまはキリストの福音をたくさんの人々に届けてくださいました。今日の新約の御言葉であるテモテへの手紙二は、パウロが晩年に近くなって書いた手紙と考えられています。若い伝道者テモテへの遺言のような手紙です。神が自分に与えてくださった使命を振り返り、パウロはテモテに語りかけます。「主はそばにいて、私を強めてくださいました。それは、私を通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるためです。そして、私は獅子の口から助け出されました。」
「主が私を強めてくださいました。」パウロにとってはそれだけなのでしょう。主が強めてくださったから、パウロは与えられた使命を果たすことができた。誰であっても、すべての人にあまねく福音が届けられるために、主が私に力を与えてくださった。「主はわが岩、わが城、私を救い出す力。」主なる神さまご自身が私を守り、支えてくださって、私は神と人とに仕えることができた。それがパウロという人なのだと思います。
神さまは私たち一人ひとりに使命を与えてくださっています。私たちはそれぞれが神に与えられた持ち場で神に仕えている。福音の証人として生かされている。だから私たちは、私を遣わしてくださった神に託された使命に生きる。ただそれだけです。神ご自身が私たちの岩となり、城となり、私を救い出してくださる。私たちはテモテと共に神の約束を信じて、神と人とに仕えたいと願います。

2025年6月9日月曜日

2025年6月9日の聖句

正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから救いだしてくださる。(詩編34:20)
あなたがたが連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(マルコ13:11)

今日の新約聖書に記されている主イエスのお言葉は、迫害されているときにどうやって信仰を弁明するのか、という話です。「あなたがたが連れて行かれ、引き渡されたとき」というのはそういう意味です。私たちが今の日本で生活している限りは、とりあえず当面のところ、そういう意味での迫害に遭うことはないと思います。特高警察に捕まることもないし、教会に集まることが犯罪とされるわけでもありません。しかし、そうであるからと言って私たちと無関係の話とは言えないと思います。もっと小さく、命をかけているのではない場面で転んでしまうということが私たちにはいくらでも起こるからです。何気ない隣人との会話の中で、周りの人と調子を合わせてしまうときに、自分に何かしらの言い訳をしながら・・・など、どのようなときであっても、信仰の弁明をせずに済ませてしまう誘惑は私たちに多いのではないでしょうか。
しかし、主イエスは約束してくださいます。「その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」聖霊が私たちに代わって、私たちの口を通して弁明し、キリストの福音をまさに福音として証言してくださる。だから大丈夫、と主イエスはおっしゃいます。私たちに必要なのは、聖霊の御業の邪魔をしないことなのかもしれません。
苦しい目に遭わなければならなくなったとき、信仰の危機に陥ったとき、自分が一体どうなってしまうのかと思うととても不安になります。そんなときに耐えられる強い信仰を自分は持ち合わせていないのではないか。主イエスは、私たちがそういうことを心配するとご存じでいらっしゃるからこそ、聖霊が話してくださると約束しておられるのではないかと思います。私たちは不安になったり心配になったりしてしまう。だからこそ、聖霊が語り出すことに委ねてほしい。主イエスはそうおっしゃっているのではないでしょうか。

2025年6月8日日曜日

2025年6月8日の聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず
わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6b)

今日の聖句:
主よ、あなたはすべてを生かしておられます。天の軍勢はあなたを礼拝しています。(ネヘミヤ9:6)
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語り出した。(使徒4:31)

今日はペンテコステ、聖霊降臨の主日です。キリストが十字架に掛けられ、復活し、天に昇り、その後祈る弟子たちの群れに聖霊が降りました。聖霊、それは私たちに堂々と神の言葉、即ち福音の言葉を証言させる神ご自身の力です。私たちも聖霊を頂いて、福音の証言者として頂いています。
「主よ、あなたはすべてを生かしておられます。天の軍勢はあなたを礼拝しています。」まさにこれこそ、福音ではないでしょうか。天の軍勢さえも礼拝するおかた。すべてのものに命を与え、生かし、今日もこの世界を保っていてくださるお方。この神が今日あなたに御顔を向け、あなたを祝福してくださっています。聖霊の力を頂いて私たちはその事実を知ることができるし、聖霊は私たちを単なる傍観者ではなく福音の当事者として巻き込んでしまう。聖霊の火は私たちのところにも及んで、少し表現は悪いかもしれませんが放火犯のように私たちを燃やしていく。あなたにも聖霊の火はもう点いてしまっています。

2025年6月7日土曜日

2025年6月7日の聖句

主よ。あなたの御手には勢いと力があり、あなたに立ちはだかる者は誰もいません。(歴代誌下20:6)
彼らはイエスをナザレの外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ4:29~30)

主イエス・キリストは会堂で聖書の御言葉を朗読なさいました。「主の恵みの年を告げる」という聖書の御言葉は今日実現した。キリストがそう宣言なさった。ところがその話を聞いたある人々は憤慨しました。そして「彼らはイエスをナザレの外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」のです。
キリストに立ち向かうのは、主の恵みの年を宣言するキリストの御言葉に抵抗しようとする私たちの罪に根ざす思いです。この心がキリストを崖から突き落とそうとし、最後には十字架にまでつけてしまった。ところが、不思議なことが起こりました。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」聖書はそう伝えています。不思議です。怒り狂ってイエスを崖から突き落とそうとする人々の間をすり抜けて行くことなんて、普通はできません。逃がすはずがない。ところが主イエスはそこを立ち去って行かれた。まさに「主よ。あなたの御手には勢いと力があり、あなたに立ちはだかる者は誰もいません」と書かれているとおりです。
私たちの怒りや憎しみ、神への殺意がイエスを十字架につけました。しかし主イエスの歩みがそこで挫折するようなことはありませんでした。キリストは私たちの怒りをすり抜けて復活の命に甦られたのです。私たちの憎しみも怒りもキリストの愛に立ちはだかり、それを押しとどめることはできなかった。私たちの怒りよりもキリストの愛の方がずっとしたたかです。しなやかに強いのです。キリストは私たちの憎しみの間をすり抜けて福音を宣言し続けておられます。
このキリストの福音宣言が今日も私たちの間に響いています。主の恵みの年はもう実現しました。私たちを救う神の御業は既に完成しています。あなたにもこれを信じてほしいとキリストが呼びかけておられます。

2025年6月6日金曜日

2025年6月6日の聖句

エルサレムを山々が囲み
主はその民を囲んでおられる。
今より、とこしえに。(詩編125:2)
(イエスの祈り)私がお願いするのは、彼らを世から取りさることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

エルサレムはユダ山地の尾根のほぼ中央にある町なのだそうです。山々に囲まれた町、エルサレム。その山々は天然の要塞として人々を守ったに違いありません。しかしもっと確かな守りがある、と詩編は言います。「主はその民を囲んでおられる。」主ご自身が私たちを守るために囲んでいてくださる。私たちは主の大きな手の中にすっぽりと包み込まれている。今も、そしてとこしえに。永遠の守りの中で私は平安に生きることができる。
主イエス・キリストは私たちのために神に祈ってくださっています。「私がお願いするのは、彼らを世から取りさることではなく、悪い者から守ってくださることです。」主イエスは、この世界に生きる私たちを守ってくださるようにと祈っておられます。私たちは仙人のようにこの世から離れるのではなく、この世界の中で神のものとして生きていきます。この世では寄留者、旅人です。この世にあって、しかしこの世のものではなく神の国から派遣された大使として生きていく。必ず神が守ってくださいます。この世の力がどんなに強く、時に悪しきもので、私たちを襲う威力がどんなに圧倒的に見えても、神が必ず私たちを守ってくださる。私たちはそのことを信じています。
今日も、主イエス・キリストにあって雄々しく進んでいきましょう。主により頼んで、信じる者の強さを抱いてこの世界で生きていきましょう。

2025年6月5日木曜日

2025年6月5日の聖句

悪しき者に神は言われる。
「何のために、あなたは私の掟を数え上げ、
私の契約を口にするのか。」(詩編50:16~17)
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。」(マタイ7:21)

神が見ておられるのは、私たちが口先で何を言うかとか、どんな知識があるのか、というようなことではないと主は言われます。私たちが何をしているのか?私たちが天におられる主イエスご自身の父の御心を行っているのか?神はそのことをご覧になっている。主イエスはそう言われます。
憐れみ深いサマリア人のたとえ話を思い出します。祭司やレビ人は、聖書のことやそこに書かれている律法についてはよく知っていました。しかし、半殺しの目に遭って道端に瀕死で倒れている人を見ても何もしませんでした。ところがサマリア人はそうではなかった。倒れている人を見て憐れみに心を震わせ、この人のところへ行って治療し、町へ連れて行って看病しました。治療費もサマリア人が払いました。この人はユダヤ人からは差別され、聖書のこともちゃんとわきまえていないと見なされていましたが、神の御心に実際に生きた人でした。主は私たちに、行って同じようにしなさい、とおっしゃいます。私たちも父の御心に実際に生きるようにと送り出しておられます。
主は問うておられます。「何のために、あなたは私の掟を数え上げ、私の契約を口にするのか。」私に従うためではないのか、と主は言われるのです。神の御心に従うために、あなたは御言葉を口にしているのではないのか、と。主イエスご自身が、今日私たちにそう問うておられます。

2025年6月4日水曜日

2025年6月4日の聖句

あなたは私の父
私の神、私の救いの岩。(詩編89:27)
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)

神様は私たちをご自分の子としてくださいます。私たちは、私たちを「子」と呼んでくださる方に「私の父」とお呼びして祈る恵みにあずかっています。私たちは子どもとして父を呼んで祈る。その私たちの祈りの言葉は、聖霊なる神様が与えてくださったものです。神に祈ることで、私たちは自分もまた神の子とされていることを体験します。
主イエスさまが私たちに祈りを教えてくださいました。「私たちに日ごとの糧を今日与えてください。」主が教えてくださったとおりに、私たちはそう祈ります。私たちの糧も、神が父として心配し、備えてくださる。私たちはそのことを信じています。
神様の父としての慈しみが今日のあなたを支えています。今日出会うすべての出来事に神の恵みが込められています。私たちの目は今しか見えませんし、自分の目の前にある出来事しか映りません。私たちの小さなまなざしでは捉えることのできないことがたくさんありますから、私たちには分からなくなってしまうことがいくらでもある。でも、私たちには分からなくても、必ず神は父としての深い愛をもって私たちを取り扱ってくださっています。私たちには分からないことや理解できないことがたくさんあるけれど、父の永遠の救いの素晴らしい恵みを信じましょう。神の父としての慈しみの中で今日という日が始まり、私たちもこの神の手の中に生かされていることを信じ、感謝して、一日を歩んでいきましょう。

2025年6月3日火曜日

2025年6月3日の聖句

(セラフィムの言葉)聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。(イザヤ6:3)
天使は大声で言った。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」(黙示録14:7)

今日の聖書の御言葉は、旧約も新約もどちらも、天での礼拝の様子を伝えています。イザヤ書ではセラフィムという天使の一種と思われる存在が神を賛美しています。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」神様の聖なる栄光と威光をほめたたえます。この世界を造り、保ち、支配し、すべてのものの主でいらっしゃるお方。
新約の御言葉も、同じように神を賛美します。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」神様の御前に頭を垂れ、神様をほめたたえる。今日も天では神をたたえる賛美の声が挙げられ、神のための歌が献げられている。
ここで「天と地、海と水の源」と言われています。地は私たちの生きる世界、私たちの手に届くものや見ることのできるもののすべてです。天は私たちの手に届かないものや私たちにコントロールできない領域。そのどちらも神がお造りになった。海は、古代ユダヤでは死と滅びの象徴でした。基本的には、「豊穣の海」というイメージではありません。すべてを呑み込み、滅ぼし尽くしてしまう海やその水の源も、しかし神の御支配の中にある。
神様はこの世界を支配しておられる方です。生も死も、栄光も滅びも、すべては神の手の中にあります。私たちはこのお方を畏れ、敬い、賛美し、神の御前に生きていく。私たちも天の礼拝に連なるものとして神を礼拝しているのです。

2025年6月2日月曜日

2025年6月2日の聖句

(エレミヤの言葉)娘であるわが民の傷のゆえに私も傷つき、嘆き、恐怖が私を締めつけていた。ギルアドには香油がないのか。そこには医者がいないのか。(エレミヤ8:21~22)
イエスはザアカイに言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:9~10)

人々が傷つき、嘆いている姿を見て、自信も傷つき、嘆いている。この言葉は預言者自身の言葉であり、同時に主なる神様の嘆きを表す言葉でもあります。「ギルアドには香油がないのか」と言います。香油を塗って痛みを和らげるのでしょう。しかしどこを探しても癒やしがない。痛みを和らげる手段がない。「そこには医者がいないのか。」痛みや嘆きを治す人も、その手段ももはやない。どこにも希望がない。主なる神様の、そして主の嘆きを映し出すような預言者の嘆きは深まります。
エレミヤの目の前にいる民の傷は、根本的には、神を求めようとしない生き方や社会的な価値観から生まれています。少し前のところを見るとこのように書いてあります。「なぜ、彼らは彼らの彫像によって、異国の空しいものによって、私を怒らせたのか。」主なる神様を信じ、礼拝するのではなく、外国の空しい神々を拝んでいる。主なる神様に知らんぷりしている。そういうところから生まれる傷が広がっているのに、そのことに気付こうとしない。
今日の新約に登場するザアカイも、そうやって生きてきた人でした。しかし主イエスと出会って変わりました。主が来てくださったことでザアカイは救われました。キリストが神のものとして取り戻してくださったからです。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」同じ主イエスさまが私たちのところにも訪れてくださっています。あなたを救うために、あなたを探しに来てくださいました。あなたが傷つき、嘆いているのを放っておくことなく、キリストが来てくださっているのです。

2025年7月1日の聖句

7月の聖句: 何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6) 今日の聖句: たとえこの身も魂も衰えようとも、そうであっても、神よ、あなたは常に私の心を慰め、私の一部。(詩編73:26) (先見者ヨ...