2024年9月16日月曜日

2024年9月16日の聖句

主なる神が私を助けてくださる。
それゆえ、私は恥を受けることはない。(イザヤ50:7)
(ペトロは)風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(マタイ14:30)

湖の真ん中で強風のために立ち往生していた小舟。その舟には主イエスがおられませんでした。主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちの乗る舟に近づいてきてくださいます。ところが弟子たちは湖を歩いてくる人影を見て幽霊だと思って恐れました。主イエスだと知ったペトロは、主に願って自分も湖の上を歩いて主イエスのもとに行かせていただきます。主が来なさいと言ってくださった。その言葉に促されて彼は一歩、また一歩踏み出した。ところが「風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」それが、今日の御言葉です。
ペトロは主イエスを信じ抜くことができませんでした。だから沈んだ。ここでの「湖」は、混沌の象徴です。死の力のしるしです。私たちに襲いかかってくる死の力、悪の力、罪の力は強い。私たちにはそれを自分の力で打ち破ることができない。主イエスにだけ、それがおできになる。私たちはキリストの力を信じ抜いているでしょうか。私たちを取り巻く混沌の力よりも主イエスの方が強いお方だと、私たちは信じているでしょうか。
「主なる神が私を助けてくださる。それゆえ、私は恥を受けることはない。」この確信を私たち自身の信仰として、今日、この日を歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福によって、私たちは今日も歩んでいきます。

2024年9月15日日曜日

2024年9月15日の聖句

今週の聖句:
キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。(2テモテ1:10b)

今日の聖句:
あなたが食べて満足するとき、主を忘れないように注意しなさい。(申命記6:11~12)
イエスは言われた。「よくよく言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。私の父が天からまことのパンをお与えになる。」(ヨハネ6:32)

キリスト者は箸の上げ下ろしも違う、と言われたことがあります。キリスト者らしい食事の仕方がある。どこが違っているのでしょう。ぜひ、ご自身の今日の食事のときに考えてみて頂ければと思います。
一つすぐに思いつくのは、食事の時に祈りを捧げるということです。この食事を与えてくださった神の恵みを感謝して、私たちは祈りを捧げます。「あなたが食べて満足するとき、主を忘れないように注意しなさい。」こう言われているとおり、私たちは主をすぐに忘れてしまいます。満腹して満足して、それを与えてくださった方のことをすぐに忘れてしまう。だから、私たちは繰り返し、食事の度に感謝をささげます。
神が、私たちのために天からまことのパンを与えてくださる。まことのパン、それは主イエスさまのことでしょう。主イエスさまを私たちのために与えてくださったお方は、主と共にすべてのものを私たちに与えてくださいます。キリストを信じ、キリストを見上げて、私たちの新しい一週間を歩んでいきましょう。今日の食卓を整えてくださるお方に、栄光と誉れがありますように。

2024年9月14日土曜日

2024年9月14日の聖句

思い煩いが私の心を占めるときも、あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。(詩編94:19)
(イエスの言葉)「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

自分の心を探ってみると、なんだかいつでも思い煩いに占領されているように思います。忙しいとか時間がないとか、自分のペースに合わないことがあれば周りが悪いとか、改めて考えてみると、やらなくてはいけないことにばかり追い立てられています。これでは神さまに仕えているのか、やらなくちゃいけないことに仕えているのか、よく分かりません。思い煩っている。
「思い煩いが私の心を占めるときも、あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。」主の慰めが、私には必要です。主に慰めて頂かなくては生きていかれない。主の慰めが私の魂に喜びを与える。
主イエス・キリストは、十字架を前にして神に祈っておられます。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスは自分の願いを抱きながらもそれに固執するのではなく、神の御心にご自身を明け渡しておられます。祈りによるキリストの自由が私たちを救うのです。主イエス・キリストのこの祈りが私たちの慰めです。このように祈るお方であるからこそ、私たちを救ってくださるお方なのです。
思い煩いを抱くなら、そのときにこそキリストを見上げましょう。主イエスさまの憐れみによって、今日も生かして頂きましょう。

2024年9月13日金曜日

2024年9月13日の聖句

あなたの慈しみの業を現してください。
攻め来る者から逃れる者を、右の手をもって救われる方。(詩編17:7)
キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の富、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(1ペトロ4:14)

キリストの名のゆえに非難される。キリスト者として生きていれば、誰もが経験することです。キリスト者であるということ、私たちの信仰、そのゆえに非難され、あるいは肩身の狭い思いをしないわけにはいかない。ところがその時、実はあなたたちは幸いだ、と聖書は私たちに語りかけます。なぜなら、栄光の富、すなわち神の霊が、その私たちの上にとどまっていてくださるから。神の霊がとどまっていてくださる。私たちは孤独ではない。神が共にいてくださる。キリストの名のゆえに非難される私たちと。
「あなたの慈しみの業を現してください」と、詩編の祈りを捧げた信仰者は言います。神の慈しみの御業によって、私たちは生かされているからです。神の憐れみによって私たちは命をいただいているからです。
神は、攻め来る者から逃れる者を、右の手をもって救われる方。私たちは神に守られ、神の右の手によって救われる。そのことを信じて、今日も生きていきたい。そう願います。

2024年9月12日木曜日

2024年9月12日

苦しむ人や乏しい人を義とせよ。(詩編82:3)
主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。(1テサロニケ3:12)

「苦しむ人や乏しい人を義とせよ」と言われています。ということは、現実はその逆で、苦しむ人や乏しい人は「不義」と言われていた、ということでしょう。そうでなければあのように言う必要がありませんから。そして、そういう言葉が現にまかり通っているということは私たちにもよく分かります。自己責任という言葉が大手を振っています。乏しかったり貧しかったりするのはその人が怠けてきたから、頑張りが足りなかったから、能力が足りなかったから・・・。苦しむ人や乏しい人の苦しみは、乏しさは、自分でどうにかするしかない。そういうまなざしは、時代や社会が変わっても大きく変わらないものなのだろうと思います。
聖書は、私たちと異なるまなざしをもちます。「主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。」互いの愛とすべての人への愛。愛することにおいて、豊かに満ち溢れさせてくださいますように、と言います。神がくださる愛。それが聖書の語りかけるメッセージです。
もしも今、私たちの周りに苦しむ人や乏しい人がいるなら、それは、神が私たちを愛に駆り立てているしるしです。もしも今私たちの周りに社会で軽んじられている人がいるなら、神は私たちを愛することへと促しておられます。主イエス・キリストが私たちにしてくださったように。私たちも愛することへと招かれています。

2024年9月11日水曜日

2024年9月11日の聖句

神よ、私のために清い心を造り、私の内に新しく確かな霊を授けてください。(詩編51:12)
この命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。(1テモテ1:5)

「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」。私たちの生き方や信じ方、私たちの存在を定めるのは、このような愛です。主イエス・キリストご自身が、私たちにとっての最も大切な教えは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛することだとおっしゃいました。そして、あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさいとお命じになりました。キリストは私たちの愛をお求めになります。形だけ整えれば良いとか、人から余計な批判をされないようにやっている感を出せとか、そういうことはおっしゃらない。偽りのない愛。真心からの愛。神を愛し、隣人を愛する。
ただ、そのような愛は、私たちが「これでどうですか」と言えるものではありません。「清い心と正しい良心と偽りのない信仰から出て来る愛」。一つひとつを考えると、もう、途方もない気持ちになります。どれ一つを取ってみても、自分の現実から遠く隔たっている。そうであるからこそ、私たちは祈ります。
「神よ、私のために清い心を造り、私の内に新しく確かな霊を授けてください。」
清い心、新しく確かな霊を私たちの内に授けてくださるのは、神さまです。私たちの内にはそれはない。悲しい現実です。それが私たちが罪人であるということです。しかし、神は私たちの内に清い心を造ってくださるし、私たちの内に信仰を見出してくださる。「あなたの信仰があなたを救った」と宣言してくださったキリストは、私たちの内に信仰に基づく愛をも生み出してくださるでしょう。

2024年9月9日月曜日

2024年9月9日の聖句

幸いな者。主を頼みとする人。(詩編40:5)
(アンデレは)自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシアに出会った」と言った。(ヨハネ1:41)

娘が算数のよく分からないところがあると言って聞きに来ました。余りのでる割り算の方法がよく飲み込めなかったようです。たまには、父にも頼りになるところがあるのでしょうか。しかし人間の父には限界があります。多少は頼りになることがあったとしても、力の限界はあるし、ましてや彼女の人生のすべてを助けてあげることはできません。私たちは人間の父を遙かに超えたまことの父、主イエス・キリストが「父」として教えてくださったお方に頼らなければどうにもならないのではないでしょうか。
「幸いな者。主を頼みとする人。」詩編はそのように言います。主を頼みとし、主をまことの父と信じ、このお方を求める人は幸い!この詩編は神を信じる幸いを深く確信しています。
シモン・ペトロの兄弟アンデレは、ヨハネによると一足先に主イエスに出会っていたようです。アンデレはシモンに言いました。「私たちはメシアに出会った。」メシア、それは救い主のことです。メシア、それはまことの王のことです。「私たちはメシアに出会った。」この方こそ本当に頼りになる方、まことに信ずべきお方!
私たちに本当に頼りになる天の父がおられます。私たちにはまことの救い主イエス様がおられます。このお方はあらゆることの神でいらっしゃいます。すべての支配者でいらっしゃいます。主イエスさまのメシアとしての御支配こそが私たちを救うのです。主の平和が今日もあなたにありますように。

2024年9月8日日曜日

2024年9月8日の聖句

今週の聖句:
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

今日の聖句:
優れた分別と知識を私に教えてください。私はあなたの戒めを信じています。(詩編119:66)
(テモテへのパウロの手紙)愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。(2テモテ2:23)

20数年前にインターネットが普及しだして、誰でも発信できる素晴らしい社会になるような気がしました。ところが実際に起きたことは、面と向かっては言えないようなこと、言うべきではないようなことを、インターネットという匿名の空間で臆面もなく言えてしまうということでした。そしてその多くが、他者を傷つけ、不用意に心の中にある差別意識を顕わにし、自分の不全感を他人をこき下ろすことで満足させるものでしかありませんでした。愚かで無知な議論は争いの元でしかない。しかもそうやってこの社会に溢れ出てしまっている言葉の多くは、突き詰めれば自分の心の中にも同じものがあると認めざるを得ません。
「優れた分別と知識を私に教えてください。私はあなたの戒めを信じています。」神の憐れみを求めて、このように祈るだけです。優れた分別と知識。それを神がくださるのでなければ、私たちの社会は壊れてしまいます。主よ、憐れんでください。罪深い私たちを。

2024年9月7日土曜日

2024年9月7日の聖句

「願いごとがあれば、言いなさい。かなえてあげよう」と神はソロモンに言われた。ソロモンは「どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください」と言った。(列王記上3:5,9)
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」すると、イエスは言われた。「退け、サタン。」(マタイ4:8~10)

ダビデの子ソロモンが王になったとき、神は彼に何でも欲しいものを願いなさいとおっしゃいました。その時、彼は自分の長寿を求めるのでも、栄誉を求めるのでもありませんでした。「どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。」自分のためではなく神に託された民を正しく治めることができるように、知恵と識別の力を求めたのです。
神さまは、私たちにどのようなことでも祈ることを許してくださっています。しかし、どのような願いでも私たちを建て上げるわけではありません。神は私たちがどんなことでも神に祈ることを待っていてくださいます。しかし、すべての願いが私たちを神に向かって成長させるわけではないのです。
主イエス・キリストは悪魔と戦われました。悪魔などに求めずとも、主イエスが父なる神様に求めれば、神は何でも下さった筈です。しかし、それでは主イエスのなさる救いの御業は成し遂げられませんでした。主は貧しく、十字架にかけられるお方であるからこそ、私たちを罪から救うことがおできになったのです。
私たちはどのように祈るでしょう。私たちはどのような願いを神に献げるでしょう。自分自身のための願いに埋もれるのか、それとも、隣人のための願いを献げるのか。神は私たちの祈りを待っていてくださいます。

2024年9月6日金曜日

2024年9月6日の聖句

私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。(ダニエル9:18)
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。(エフェソ2:8~9)

私たちは神に祈ります。嘆願します。神様ご自身がそれを許してくださり、また祈りを待っていてくださることを信じて、私たちは大胆に神に祈ります。
聖書は、神さまが聖なるお方でいらっしゃることを伝えています。モーセは、柴が燃えるような光景を目にして主の御前に近づいたとき、足から履物を取るように命じられました。預言者イザヤは神の御前に自分がいることを知って、死なねばならないと恐れました。漁師シモンは自分の目の前にいる方がただならぬ方と知って地にひれ伏し、「私は罪深い者」と告白しました。神は聖なるお方。キリストは聖なる神の御子。私たちが当然のように祈ったり願ったりすることのできないはずのお方です。
「私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。」「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」今日与えられている二つの御言葉は、ただただひたすらに、私たちの正しさや行いのゆえではなく神の憐れみのゆえに、神の賜物のゆえに、と言います。
私たちは祈ります。神に嘆願します。私たちの行いや私たちの正しさが祈りの正当性を与えるのではない。神が私たちを憐れみ、愛してくださって、私たちの祈りを待っていてくださるからです。神の愛のゆえに、ただそれだけの理由で、私たちは神に願うことが許されている。そうであるからこそ、私たちは大胆に神に祈ります。ご自分の愛のゆえに、神が私たちの願いに耳を傾けて、待っていてくださるからです。

2024年9月5日木曜日

2024年9月5日の聖句

あなたの民を救い、ご自分の民を祝福してください。とこしえに彼らを養い、担ってください。(詩編28:9)
群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(イエスは)深く憐れまれた。(マタイ9:36)

主イエス・キリストは、私たちをご覧になって深く憐れんでおられます。ご自分の心も、肉体も痛めて、苦しみながら私たちに向かってきてくださる。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(イエスは)深く憐れまれた。」この「羊飼いのいない羊」というのは、旧約聖書の預言書などに時々登場する表現です。王が正しく治めず、混乱し、人間としての尊厳も損なわれ、力ある者に踏みにじられ、傷つけられている民を指す言葉です。主イエスは、羊飼いのいない羊のように弱り果てている民をご覧になって、深く憐れまれました。
私たちは主イエスさまを「キリスト」とお呼びしています。キリストとは「油を注がれた者」という意味です。旧約聖書で油を注がれて任職される職務は基本的に三つで、王、預言者、祭司です。主イエスさまは真の王、預言者、祭司でいらっしゃる。そうです。キリストは真の王です。このお方は自分のために羊を食い物にはなさいません。「あなたの民を救い、ご自分の民を祝福してください。とこしえに彼らを養い、担ってください。」この祈りに、真実をもって応えてくださいます。いや、私たちが願っている以上に真実な王です。羊のためにご自分の命を捨ててくださる王でいらっしゃるのです。
私たちの新しい一日は、王イエスの祝福と救いによって彩られています。私たちの羊飼い、王でいらっしゃるお方を仰ぎ、崇め、今日の日を生きていきましょう。

2024年9月3日火曜日

2024年9月3日の聖句

前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置かれる。(詩編139:5)
実際、神は私たち一人一人を遠く離れてはおられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。(使徒17:27~28)

神は遠く離れてはおられない。神は側にいてくださる、神は私たちと共にいてくださる。言葉としては、よく聞く言葉です。キリスト者として生きていれば何度となく耳にする言葉。もしかしたら、少し手垢が付いてしまった言葉であるかもしれません。
ところが今日の聖書の御言葉は、私たちが思っているよりももっと神が肉薄しておられると伝えます。「実際、神は私たち一人一人を遠く離れてはおられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。」神は側にいてくださるどころか、私たちは神の中に生きているのだ、と言います。私たちが今日生きて動いているのも神の中でのこと。私たちの存在そのものがすっぽりと神に包み込まれている。「近い」どころか、私たちは神の中にいるのだ、と言うのです。驚くべき言葉です。
旧約の御言葉も同じ驚きをもたらします。「前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置かれる。」神は私の前を歩いておられる。しかしそれだけではない。後ろにも神はおられる。神が私を囲んでいてくださる。いや、前後だけではない。私の上には神の御手がある。どこからでも神が私を囲い込み、包み込み、私をあらゆるところから守っていてくださるのです。
今朝、どのような思いで目覚めたでしょうか。平安で喜びに満ちた朝だったでしょうか。その通りと言える人もいれば、そうではない人もおられることでしょう。神はそんなあなたを取り囲んでおられます。あなたの上にも神の手が置かれています。それどころではない、あなたの存在そのものがすっぽりと神の中に置かれている。喜びの日も、哀しみの日にも、その事実は決して変わらない。あなたの今日一日は神の中で動く一日です。

2024年9月2日月曜日

2024年9月2日の聖句

(主は)心の砕かれた人々を癒やし、その傷を包む。(詩編147:3)
この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。(1ペトロ2:24)

主イエス・キリストは、あなたを癒やしてくださる方です。あなたの砕かれた心、あなたの傷を、主イエス・キリストが癒やしてくださいます。そのことを、今日私たちに与えられているペトロの手紙では「この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです」と言っています。私たちは主イエス・キリストのお受けになった打ち傷によって癒やされた。
改めて考えてみると、キリストがお受けになった傷が私たちを癒やすというのは、どういう意味なのでしょうか。キリストの傷は一体どうやって私たちを癒やすのか。
このことについて、ペトロの手紙では、今日与えられている言葉の直前のところでこのように言っています。「そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。」そして、今日の御言葉に続きます。「この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」そうすると、主イエス・キリストのお受けになった傷が私たちを癒やすというのは、私たちがキリストの傷によって罪に対して死んだということだ、ということになります。私たちを損ない、傷つけ、私たちの尊厳を踏みにじる最後の敵は罪です。罪が私たちを支配している。私たちを罪の力が屈服させてしまっている。しかし、キリストがお受けになった傷、キリストの十字架の上での死は、私たちの身代わりとしての死です。このお方が私に代わって死んでくださったから、あたしはもはや罪に対して死んだ。もう罪は私を支配しない。私たちはキリストのお受けになった傷によって癒やされた。罪から自由になったのです。
心の砕かれた人を癒やし、その傷を包んでくださるお方の御許に、今、帰りましょう。主イエス・キリストの十字架の傷によって癒やして頂きましょう。あなたの罪は、もう赦されたのです。

2024年9月1日日曜日

2024年9月1日の聖句

9月の聖句:
私は近くにいる神なのかーー主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。(エレミヤ23:23)

今週の聖句:
私の魂よ、主をたたえよ。
そのすべての計らいを忘れるな。(詩編103:2)

今日の聖句:
わが主よ、あなたは代々に我らの住まい。
山々がまだ生まれず、あなたが地と世界を生み出される前から
いにしえからとこしえまであなたは神。(詩編90:1~2)
イエスは(弟子たちに)言われた。「神を信じなさい。」(マルコ11:22)

山々が、この世界が、あるいはいかなる人間が私に襲いかかり、それがどんなに脅威であろうと、主はいにしえからとこしえまで私の神。この方がこの山々を、世界を、この人をもお造りになった方。私たちはそう信じています。どのような人も、どのような力も私は恐れない、と代々の信仰者たちが告白してきました。主イエス・キリストが「神を信じなさい」と励ましてくださるから。
自分の心がどんなに簡単に恐れに覆い尽くされてしまうかを思わずにおれません。そうであるからこそ、ただただ神に向かって憐れみを求めるばかりです。「主よ、私も神を信じます。信仰のない私をお救いください」と。
今日、神に与えられたこの一日、神を信じるために生きていきましょう。神を信じ、キリストにあって平安に生きていきましょう。主イエス・キリストを仰いで。私たちがこの肉体の目をもってまだ見たことのないキリストを愛して、言葉に尽くせないすばらしい喜びを抱いて、今日の日を生きていきましょう。

2024年8月31日の聖句

彼らは私の宝となる。人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。(マラキ3:17)
(イエスの言葉)平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

平和を造る人々は、実にしばしば、この世では無力です。
主イエスさまが憐れみ深いサマリア人の譬えを話してくださいました。さみしい道で追い剥ぎに襲われて倒れていた人を助けてくれたのは、祭司でもレビ人でもなく、一人のサマリア人でした。この人は倒れている人を見て憐れに思い、近寄って介抱し、自分のろばに乗せて町へ連れて行き、宿屋に一緒に泊まり、宿屋の主人に金を渡してその後の看病を委ねました。
すごいことです。しかし他方では、小さなことです。何百人も救うような事業を始めたわけではないし、手当たり次第だれでも構わず助けるシステムを作ったのでもありません。たった一人の人を見て、憐れみに胸をかきむしられて、自分ができることをしただけです。できない部分は他の人に頼みました。主イエスは、この人がしたことこそ、あの倒れている人の隣人になることだとおっしゃいます。
一人の人の隣人になるというのは、考えてみれば無力です。大きなことができるわけではないかもしれない。私たちのすることは非力でしかないかもしれない。しかしそんなこと考えずに伸ばす憐れみの手を、主イエスは御心に留めていてくださいます。その平和を造る人を、神の子と主イエスご自身が呼んでくださいます。「彼らは私の宝となる。人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。」
主イエス・キリストは、私たちにも同じ憐れみの心を与えてくださっています。私たちも平和を造る神の子として生きることができる。キリストがそんな私たちをご自分の宝と呼んでくださいます。

2024年9月16日の聖句

主なる神が私を助けてくださる。 それゆえ、私は恥を受けることはない。(イザヤ50:7) (ペトロは)風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(マタイ14:30) 湖の真ん中で強風のために立ち往生していた小舟。その舟には主イエスがおられませんでした。主イ...