2024年7月31日水曜日

2024年7月31日の聖句

私があなたがたの悪の道や堕落した行いによってではなく、私の名のためにあなたがたを遇するとき、イスラエルの家よ、あなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル20:44)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。(ローマ5:8)

主なる神さまは私たちを憐れみ、愛し、私たちのためにキリストをお与えくださいました。キリストは私たちのために十字架にかかり、私たちを罪と悪と死から救ってくださいました。それらはすべて、主がご自身の御名のためになさったことだ、と聖書は告げています。「私の名のためにあなたがたを遇するとき・・・!」
主のお名前、聖なる御名のため。私たちは、いつの間にか自分が神に愛されて当然だと思い込んでしまいます。だから、自分の思う「当然」の水準に届かないといって神さまに文句を並べ立ててしまう。ところが聖書はそういう私たちの価値観をひっくり返してしまいます。神が私たちを愛してくださったのは、私たちのためではなく神ご自身のため、神のお名前のためだと言うのです。
そもそも神さまは、まさしく「神さま」です。天と地とそこにあるすべてのものをお造りになった方。この私に命を与えてくださった方。その方と私たちとの関係をひっくり返すことはできません。造られた陶器がそれを造る陶工になることはできない。刻まれた像がどんなに立派でも、それを造った人に成り代わることはできない。造った方が造られたものをどのように扱おうとも、それは造った方の自由です。神は私たちを愛すると決断してくださいました。それは私たちのためではない。神ご自身のため。神の聖なるお名前が永遠の愛の名前として貫かれるために。そうであるからこそ、この愛は私たちのあり方の如何に関わるのではなく、神ご自身のご決意に寄って立っています。だからこそ、このお方の愛は確かで、この方の救いはとこしえなのです。私たちは神を崇め、このお方の聖なるお名前にすがって、この方を礼拝します。

2024年7月30日火曜日

2024年7月30日の聖句

私が荒れ野に水を、荒れ地の川を与え、私の民、私が選んだ民に飲ませる。(イザヤ43:20)
(イエスの女性への言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ4:14)

私たちに水を与え、飲ませてくださるのは神さまです。神さまが私たちの命をつなぐための水を与えてくださっています。
その実感は、私たちよりも、古代イスラエル人の方がずっと強かったと思います。神が飲ませてくださるのでなければ、生きながらえることはできない。主イエスと出会った一人の女、今日では「サマリアの女」と呼ばれている女も同じでした。先祖が掘った井戸から自分も飲んでいる。この井戸のお陰で命をつないでいる。神の恵みの中で生かされている。そんなサマリアの女に、主イエスはもっと素晴らしい水の話をなさいます。飲めばもう渇くことのない水です。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
主イエス・キリストは、私たちの肉体だけを生かすのではなく、魂をも生かす水をくださいます。私たちを心も体も養ってくださいます。「私が荒れ野に水を、荒れ地の川を与え、私の民、私が選んだ民に飲ませる。」ここは、私たちには荒れ野にしか見えないかもしれません。私たちにとっては不毛な荒れ地かもしれません。しかし神が水を湧き出させ、川をひいてくださる。私たちを生かしてくださいます。
こうして日々御言葉を与えてくださっています。私たちを生かすために。このお方を信頼しましょう。どのようなときにも信頼しましょう。御言葉を慕い求めましょう。主イエス・キリストのくださる命の水に生かされる幸いを喜びましょう。

2024年7月29日月曜日

2024年7月29日の聖句

(主よ、私たちの神よ。)私たちの心を主に向け、そのすべての道を歩み、先祖に命じられた戒めと掟と法を守るようにしてください。(列王記上8:58)
聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。(1コリント12:3)

私たちは信仰によって救われる。私たちはそう信じています。その「信仰」というのは、何か難しい教理を理解しているとか、誰からも立派だと言われるような生き方ができているとか、特別な修行を積んだとか、そういうことではありません。「イエスは主である」と告白すること。これが信仰です。
私たちも喜んで告白します。「イエスは主である!」しかしこの信仰は、私たち自身から生まれた物ではありません。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。私たちの心が生み出す信仰ではない。聖霊なる神様が、御自ら私たちの心に与え、口に上らせてくださる言葉です。「イエスは主である」と信じ口に上らせるとき、聖霊が私たちに働いてくださっています。
ですから私たちは祈る。「私たちの心を主に向け」てください、と。主が私をとらえ、私の心をご自身に向けさせてくださらなければ、どうして私は主を求めて生きることができるでしょうか。主イエスさまを慕い求める幸いは、神さまが私たちに与えてくださった幸いです。
今、私たちは神さまの起こしてくださった奇跡にあずかっています。「イエスは主である」と信じ、この口がそう告白させて頂くという、永遠の意味を持つ奇跡です。主イエスさまを愛し、慕い求め、主への愛に生き、主がくださる愛の中で生かされる幸い。これが今日あなたのために備えられている神の御業です。

2024年7月28日日曜日

2024年7月28日の聖句

今週の聖句:
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。(ルカ12:48b)

今日の聖句:
主こそ味方、私は恐れない。人間が私に何をなしえようか。(詩編118:6)
誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。(ローマ8:35)

キリスト・イエスによって示された神の愛から私を引き離すものは何一つない。使徒パウロはその確信をもって福音を語り続けます。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。」そのような者は誰一人としていない!どこにも!ここに使徒パウロの確信があります。
「主こそ味方、私は恐れない。人間が私に何をなしえようか。」私たちは、ただこの事実を信じ、勇気をいただいて生きています。主が味方でいてくださる。私には恐れがない。
今日は主の日です。わたしたちは神を礼拝します。私たちの味方でいてくださり、キリストにおいて愛を示してくださった方を私たちは礼拝します。このお方の御前に私たちは祈りをささげる。礼拝は、私たちはほかの誰も恐れません、という告白です。このお方こそ私の神、という信仰の告白の場です。キリストを仰ぎ、キリストに賛美を献げて、私たちの一週間の営みを始めていきます。

2024年7月27日土曜日

2024年7月27日の聖句

貧しい人が(主に)永遠に忘れられ、苦しむ人の希望が滅びることは決してない。(詩編9:19)
イエスは言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)

「貧しい人々は、幸いである」と主イエス・キリストは宣言なさいます。キリスト以外の一体誰にそのようなことを言えるのでしょうか。この世は、一方では貧しい人を放置します。「貧困は必要悪」と言わんばかりに、富む人々に犠牲を強いられているし、誰もそれを是正しようとはしません。あるいは逆に、貧しさこそが不幸として徹底的に否定し、この社会のシステムを変えることこそが正義とします。しかし社会システムを変えても、そこに生きている人間が変わらなければ結局同じでしょう。もちろん、この世にはびこる不正義を放置することは許されないことです。
主イエスは驚くべきことに「貧しい人々は、幸いである」と言われるのです。その大前提は、主ご自身が神の御分でありながら貧しくなられたということに違いありません。主イエスはご自身が誰よりも貧しくなって、貧しい人の一人になられて、そこに神の国を宣言した。貧しい人にこそ神の国が到来したと、貧しい人の真ん中で宣言なさったのです。だから、「貧しい人々は、幸いである」というのは、主イエスにしか口にすることのできない言葉です。
主なる神さまは貧しい人を心にかけ、苦しむ人の希望になってくださる方です。私たちが神と信じ、従おうと願っている方は、この世から忘れられた人々の味方でいらっしゃるお方です。この神のあり方が、私たちの生き方を定めるのです。私たちは、どこに立つのでしょうか?

2024年7月26日金曜日

2024年7月26日の聖句

見よ、神が打ち壊すと、二度と建て直せない。人を閉じ込めると、開けられない。(ヨブ12:14)
イエスは言われた。「信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」(マルコ9:23~24)

信仰って一体何なのか。それは、この父親の言葉に尽きるのではないでしょうか。「信じます。信仰のない私をお助けください。」私たちは神様の御前で胸を張って「信じます」と言えるような者ではありません。神さまに信仰を問われれば、顔を伏せてシュンとするしかない。何もお答えできないし、神さまに差し出すことのできるものなど何もない。しかし、私たちは信じています。神さまを愛しています。神さまを望みとしています。ですから、私たちは主イエスさまにすがりつくようにして告白します。「信じます。信仰のない私をお助けください。」
この父親は大切な息子が苦しんでいました。誰にも息子を癒やすことができなかった。弟子たちにもできませんでした。父親は主イエスに「もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください」と言います。主イエスは父に「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」とお答えになった。
父親の思いは痛いほど分かります。神により頼んで、でも我が子が苦しんでいるその圧倒的な現実の残酷さに打ちのめされていて、やっとの思いで「もしできるなら」と言う。しかし主イエスは「信じよ」と言ってくださるのです。だから、このお方には私たちの不信仰をまるごとお預けして良いのです。必ず応えてくださるから。キリストには何でもおできになります。どんなことをしてでも私たちを救ってくださいます。神を信じ、キリストを信頼して、私たちの今日の日を歩んでいきましょう。

2024年7月25日木曜日

2024年7月25日の聖句

(神の言葉)私は雲の中に私の虹を置いた。これが私と地との契約のしるしである。(創世記9:13)
しかし、今の天と地とは、同じ御言葉によって取っておかれました。(2ペトロ3:7)

私たちの生きているこの地も、私たちの上に広がっている天も、すべては神が保ち、支えていてくださいます。その御言葉によって。この世は神の言葉に支えられている。
今日の旧約はノアの箱舟の出来事の最後の場面です。人の思うところやするところがあまりに悪に染まっているのを神がご覧になり、心を痛め、人を創造したことを後悔して地の面から消し去ろうと、洪水を起こした。ところが洪水の後、神は人が心に計ることは幼い頃から悪いのだとおっしゃって、もはや同じように地を呪うことはしないとおっしゃいます。
私たちの営みは、洪水の前でも後でも変わらずに悪い。それでも神はこの世界を滅ぼさず、保っていてくださいます。神が支えていてくださっている。私たちが自滅し、滅びに向かって真っ逆さまに落ちていくときにも、神が忍耐して、私たちを支えていてくださいます。ご自身の御言葉によって。福音によって。主イエス・キリストという神の言葉によって。神はその約束を虹をご覧になる度に思い起こしてくださる。
神はこの世界を保っていてくださいます。神はご自分がお造りになったものを愛してくださいます。神の愛に、神の憐れみにすがりつつ、私たちは今日も生きています。主イエス・キリストを仰ぎましょう。キリストに憐れみを求めましょう。神の言葉に耳を傾け、神の御前に生かされている幸いに感謝しつつ、今日の日を生きていきましょう。

2024年7月24日水曜日

2024年7月24日の聖句

主が私を遣わされた。すべての嘆く人を慰めるために。(イザヤ61:1,2)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。(2コリント1:2~3)

主イエス・キリストにあって私たちが「父」とお呼びする神さまは、慈しみ深いお方です。「父」という呼び名に、既にその慈しみが現れています。神さまは私たちにとって遠く離れた方ではなく、私たちと無関係な顔をなさる方ではない。私たちへの慈しみに富んだ父、そして慰めに満ちたお方です。この「慰め」という言葉は、「呼ぶ」という言葉に「側」という接頭辞がくっついてできた言葉です。側にいて呼びかけてくださる。神さまは私たちのすぐ隣りにいてくださる。側近くでいつも私たちに語りかけてくださっている。
神さまの父としての慰めに満ちた御心が、私たち自身をも慰めの人として生かします。私たちも、神をまねて慰めの人として生きるように、神に招かれています。共に生き、隣りにいて語りかける人へと。
神さまの慰めが、私たちの間に宿りますように。そして私たちの交わりを通してそれがますます明らかにされますように。主イエス・キリストの恵みと平安が今日もあなたと共にありますように。心から祈ります。

2024年7月23日火曜日

2024年7月23日の聖句

(主よ)あなたの定めこそ私の喜び。私の良き助言者。(詩編119:24)
(イエスの言葉)「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。排するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)

神さまの御言葉こそ私たちの羅針盤、進むべき道を指し示す灯台です。「あなたの定めこそ私の喜び。私の良き助言者。」私たちは御言葉を喜びます。私のための助言者として受け入れます。
今、NHKの大河ドラマでは平安時代を舞台にした物語を放送しています。とても面白い。歴史の中でもとても有名な占い師(陰陽師)が登場しています。こういうドラマを観て知らされるのは、今から約1000年前の日本では、占いの類いが国の行く末に深く関わり、人の命までも左右する力があると信じられていた、ということです。陰陽道が助言者と信じられ、占いが人生の処方箋と考えられていた。
しかし私たちは占いを信じません。当たらないから信じない、というのではない。当たるか当たらないかなんてどうでも良いことです。そもそも前提になっている信仰が違う。私たちは神がその慈しみに満ちた御心をもって私たちの行く末を定めておられると信じる。それは占いに尋ねる運命や、人の生き死にを左右するとされる呪術とは違う。私たちが信じるのはキリストに示された神の慈しみ。神の言葉を私たちは信じる。
御言葉をこそ助言者として受け入れ、神の言葉に従って今日の日を生きていきましょう。永遠の祝福がそこにはある。キリストにある神の慈しみを明らかにし、その中に私たちをおき続ける神さまを信頼して、今日の日を生きていきましょう。

2024年7月22日月曜日

2024年7月22日の聖句

彼らはあなたに戦いを挑むが、あなたに勝つことはできない。私があなたと共にいて、救い出すからだ。ーー主の仰せ。(エレミヤ1:19)
(イエスによる弟子たちのための祈り)彼らのためにお願いいたします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。(ヨハネ17:9)

「私があなたと共にいて、救い出す」。主なる神さまが言ってくださっています。神は私たちの味方でいてくださる。例え誰が私たちに敵対しようとも、誰も私たちに勝つことはできない。
私たちの生きるこの世界は、今も昔も変わらず、罪と悪と死が覆い尽くしています。私たちを支配する悪の力は強い。改革者ルターは、悪の支配にとても敏感で、これと戦い続けた人物でもありました。私たちも同じ戦いを戦っている。
一人の人間として、あまりにも強いこの世の悪の力に絶望的な思いになることがあります。社会全体が悪に傾き、死の行進を突き進むような姿を見せているのではないでしょうか。外国人を冷たくあしらったり、邪魔者扱いしたり、貧しい人や弱っている人を蔑ろにしたりするのは、その一つのしるしだと思います。しかしそのような悪が一度力を持ち始めると、どうすることもできなくなってしまう。自分の非力さを痛感せざるを得ない。
しかし、主なる神さまは言ってくださいます。「彼らはあなたに戦いを挑むが、あなたに勝つことはできない。私があなたと共にいて、救い出すからだ。」神が共にいてくださる。この世の悪に私たちは非力であっても、神は打ち勝ってくださる。私たちはこのお方を救い主と信じている。私たちは主なる神さまのものです。私たちのためにキリストが祈っていてくださいます。神を仰ぐことの慰めと励ましを、私たちは確かにしていきたい。そう願います。

2024年7月21日日曜日

2024年7月21日の聖句

今週の聖句:
光の子として歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理の内にあるからです。(エフェソ5:8b,9)

今日の聖句:
見よ。良い知らせがを伝える人の足が、
平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある。(ナホム1:15)
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。(エフェソ2:17)

主イエス・キリストの平和の福音!キリストは私たちを神と和解させてくださいました。神を敵として生きてきたきた私たちに平和をもたらしてくださった。私たちにまことの平安をくださいました。だからこそ、私たち互いの間をも平和にしてくださる。「キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。」キリストが来て私たちを平和にし、私たちを一つの教会としてくださった。
「分断」ということがいろいろな場所で指摘されています。この時代の精神であると思います。考え方が違ったり、価値観が違ったり、利害が対立しているところで、和解の道が全く見えなくなってしまっている。とても残念なことに、私たちキリスト者もそういう分断の精神と無関係ではいられない。
そうであるからこそ、今こそ私たちはキリストの前に悔い改めつつ平和の福音を受け入れましょう。キリストの福音を絵空事にすることなく、頭を垂れつつキリストの御前に進み出ましょう。主イエス・キリストが遠くにいる者も近くにいる者も一つにしてくださいます。主イエス・キリストの憐れみを求めて、神の御前に進み出ましょう。

2024年7月20日土曜日

2024年7月20日の聖句

あなたの神である主を捨てたこと、あなたに私への畏れのないことが、どんなに苦しく悪しきことであるかを知り、見極めよ。(エレミヤ2:19)
(弟息子が)何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。(ルカ15:14~15)

私たちの目に映るところは、やはりどこまでも表面的なことだけです。主イエスが聞かせてくださったこの譬え話では、この後、兄息子が登場してきて弟の振る舞いに対して怒ります。娼婦どもと一緒に父の身代を食い潰したと言います。それは確かにその通りです。弟自身、今そのことで苦しんでいます。財産は無駄づかいしてしまった。そんな自分を助けてくれる人は誰もいない。ひどい飢饉の中、豚飼いになった。豚はユダヤ人は決して触れない動物ですから、ユダヤ人としての誇りも生き方も全部捨てた、捨てざるを得なかった、ということです。
しかし主イエスの譬え話をよく読むと、弟息子の本当の問題は別のところにあります。「放蕩」という倫理的問題は事の本質ではない。弟も、そして兄も抱えていた問題の根っこ。それは、父を捨てたことです。主イエスの話してくださったこの譬えの「父」は、神を意味している。つまり、私たちの悲惨の根源は神を捨てたことにある。主イエスはそのことを問うておられます。
「あなたの神である主を捨てたこと、あなたに私への畏れのないことが、どんなに苦しく悪しきことであるかを知り、見極めよ。」主なる神さまの御前に静まって、この一事において自分を省みたい。そのことから今日の歩みを始めましょう。

2024年7月19日金曜日

2024年7月19日の聖句

見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはない。(イザヤ65:17)
(黙示者ヨハネの手紙)また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去った。(黙示録21:1)

私たちには、この世で起きていることが永遠で、絶対のもののように思えてしまいます。この世の価値観や栄光、富、力、そういうもろもろが永遠の意味を持ち、揺らぎないもののように思えます。そう思わせるほど、「みんな」が礼賛しているということでもあるのかもしれません。
しかし、黙示録を書いたヨハネは言います。「最初の天と最初の地は過ぎ去った。」最初の天と最初の地は過ぎ去った。今私たちの前に広がっているこの世は決して永遠ではない。やがて終わりが来る。やがて過ぎ去るときが来る。それは、おごれる者も久しからずとか、盛者必衰の理などと言ったことでは済まない、もっと根本的な事実です。この天と地そのものが過ぎ去ってしまう。この世界にあるどんなものも、価値も思想も力も、何もかもが神の前では絶対ではない。
「新しい天と新しい地。」それは、神が改めて創造なさるものです。この世界の完成、神ご自身による完成です。私たちの営みの延長線上にあるのではない。神が完成なさる「新しさ」。私たちのよいと思うものが実現するとか、私たちの願いが叶うということを超えた救い。私たちは、この世界にあるあらゆるものではなく、ただ神を信じます。神が与えてくださる救いを待ち望みます。心を高く上げて、神を求めましょう。

2024年7月18日木曜日

2024年7月18日の聖句

(主の言葉)彼は私の名を知っている。私は彼を守ろう。(詩編91:14)
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

神さまは、私たちのことを心にかけていてくださるお方です。神が私たちを心配してくださっています。だから、私たちが自分で自分のことを思い煩ったり、自分のことで心がいっぱいになってしまうというのは、全く必要の無いことです。神のご配慮の中で今日も生かされているからです。
主なる神さまは私たちをご覧になりながら言ってくださいます。「彼は私の名を知っている。私は彼を守ろう。」私たちは知っています、神さまのお名前を。主イエス・キリストがご自身の「父」として私たちに神を紹介してくださいました。私たちは「主イエス・キリストの父なる神」とお呼びして祈ることを主ご自身に教えていただき、そう祈る恵みにあずかっています。そんな私たちを守ろうと神さまが言ってくださっています。私たちは神の守りの中で生かされている。
私たちの心を覆い尽くしてしまう毎日の雑事があります。子育てのこと、介護のこと、健康のこと、生活のこと、人間関係のこと、他にも数え切れないくらいに私たちの心を埋め尽くすことはたくさんある。しかし神がそれらすべてについて配慮してくださっています。もしかしたら、私たちの願っているとおりにはならないかもしれません。それでよいのです。神が望んでおられるとおりになるのが一番よい。私たちは神の父としての慈しみに信頼します。主イエス・キリストが示してくださった神の愛が私たちを今日も生かしてくださっています。

2024年7月17日水曜日

2024年7月17日の聖句

私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれであるーー主の仰せ。私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(エレミヤ31:33)
彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。(ローマ9:4)

神は私たちをご自分の子どもにしてくださいました。「子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」私たちは神の子として、神の栄光にあずかり、神が契約を結んでくださり、生きる指針としての律法をいただき、神を礼拝する光栄をいただき、神の約束を信じる民とされています。私たちは神の子どもたち!
それは、神ご自身が私たちのうちに行ってくださった御業です。「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」神さま御自らが私たちの胸の中にご自分の言葉を刻みつけてくださり、私たちをご自分の民としてくださいました。神がしてくださったその事実が私たちを救うのです。
先日の海の日に、10年ほど前に亡くなった妻の祖父母の記念会がありました。祖父母には二人の子どもがいて、それぞれに四人ずつ子どもがいます。殆どの家族が集まったのでとても大勢でした。たくさんいますが、皆祖父母に繋がっていたり、その子どもや孫に繋がっている人です。改めて思います。「子ども」というのは不思議な存在です。共通した愛の絆で結ばれている。私たちはキリストにあって神の子どもたちです。神を「父」とお呼びして祈る仲間たちです。神の愛が私たちの絆となって、私たちは一つの家族にして頂いています。子としての身分は私たちのもの!そのために、神様ご自身が私たちを、キリストにあってご自分のものとしてくださっているからです。

2024年7月16日火曜日

2024年7月16日の聖句

ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ語るのか。「私の道は主から隠されており、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。(イザヤ40:27)
(イエスによる弟子たちへの言葉)メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。(ルカ24:26)

すごい言葉です。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」ここに「はず」とあります。そうなるはずだった。定められていたことであった。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」メシアなるイエスの苦しみ。十字架にかけられたこのお方の苦しみは、神ご自身がお定めになり、そのように聖書によって語られてきたことであった。そうなる「はず」だった。主イエスご自身がそのようにおっしゃるのです。
このメシアの「はず」は私たちの訴えへの答でもあります。「私の道は主から隠されており、私の訴えは私の神に見過ごされている。」そのように問う私たちへ、主イエスさまの苦しみとその必然性こそが答です。キリストは苦しみをお受けになるはずだった。苦しみを経て主イエスは栄光に入るはずであった。この方が私たちの救い主であるからこそ、私たちもまた苦しみを受けることは必然です。キリストに従うための苦しみを、私たちも避けることはできないのです。
私たちのために苦しみをお受けになったキリストこそ、私たちの慰めです。私たちは生きているときにも死ぬときにも、キリストのものです。その事実が私たちを今日も支えてくださるのです。

2024年7月15日月曜日

2024年7月15日の聖句

万軍の主は私たちと共に。
ヤコブの神は我らの砦。(詩編46:8)
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のようなありさまを深く憐れまれた。(マルコ6:34)

主なる神さまは、イエス・キリストとして私たちのところへ来てくださいました。キリストは私たちのところへ来られ、私たちをご覧になり、その胸をかきむしられるような思いを抱いてくださいます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のようなありさまを深く憐れまれた。」私たちの傷や痛み、私たちの惨めさは、まことの羊飼いがいないことにその根本的な原因がある。私たちには、私たちの世話をしてくださるまことの羊飼いがどうしても必要なのです。
主イエス・キリスト。このお方こそ私たちの羊飼い。よい羊飼いです。私たちのために命を捨ててくださる羊飼い。私たちの中のたった一人でも見失えば、どこまででも捜し求めてくださる羊飼いです。私たちは羊飼いイエスの愛によって今日も守られ、育まれている。主は私たちと共にいてくださいます。
主イエス・キリストを仰ぎ、キリストと共に歩んでいきましょう。キリストの御手の中で生かされている幸いを存分に味わいましょう。キリストと共に生きる今日の日を楽しみましょう。主イエス・キリストの恵みが皆さんお一人おひとりと共にありますように。

2024年7月14日日曜日

2024年7月14日の聖句

今週の聖句:
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19)

今日の聖句:
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの。(詩編24:1)
ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19)

私たちが日々の聖書日課として用いている「日々の聖句」では、毎日の旧約新約一箇所ずつの御言葉とあわせて、月の聖句や週の聖句も与えられています。今週の聖句は、今日の新約と同じ箇所です。聖句はくじ引きで決めているそうですから、今日は神さまは色濃くこの御言葉を聞かせてくださったということなのでしょう。
御言葉は、私たちをよそ者とは呼びません。聖なる者と同じ民と言います。私たちも神の民の一員、神の家族なのです。
私たちは、主なる神さまのものです。神の所有物です。だから、私たちは自分を卑下してはいけないのです。自分なんて必要ない人間だとか、自分の価値なんてたいしたことないと言ってはいけない。神さまのものだからです。あなたは聖なる者たちの一人です。神の家族の一員なのです。この力強い神の救いの宣言の中、私たちは今日の日を生きることが許されています。キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2024年7月12日金曜日

2024年7月12日の聖句

その僕モーセを通して約束された主の恵みの言葉が、一つとして実現しないことはありませんでした。(列王記上8:56)
(イエスは)モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。(ルカ24:27)

主の恵みの言葉。それは、主イエスが「ご自分について書いてあること」として聖書を解き明かしてくださったとおり、神の子キリストを証しする聖書の御言葉です。私たちは聖書の御言葉によって、恵みに溢れたキリストと出会います。
主イエス・キリスト。このお方こそ、主の恵みそのものでいらっしゃるお方。私たちの救い主です。キリストを仰ぎ、キリストを呼び、キリストの愛の中を私たちは生かされている。今日もキリストを崇めるために私たちは生きていきます。
ですから、私たちは神の恵みを求めて他の所には行きません。この世の成功とか、世間が褒めそやす立派さとか、そう言うところに私たちは神の恵みを見出さない。私たちを愛し、私たちのために十字架にかけられ、私たちのために復活させられたキリストにこそ神の恵みが明らかになった。だから、私たちは聖書が伝えるキリストを礼拝します。
暑い日や雨の日など、厳しい天候の日が続いています。肉体の弱さを覚えます。そのような日も、キリストに現された主の恵みが私たちを離れることはありません。私たちはキリストという主の言葉そのものでいらっしゃる方を信じて今日も生きていきます。今日もあなたに祝福がありますように。

2024年7月11日木曜日

2024年7月11日の聖句

彼らは「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民ではない者)」と言われるかわりに、「生ける神の子ら」と言われるようになる。(ホセア2:1)
ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。(ガラテヤ4:7)

もう20年ほど前ですが、アメリカ合衆国長老教会が『はじめてのカテキズム』という小さな本を出しました。子どもたちに信仰の教育をするために生み出された信仰問答書です。その第一の問答でこのように言われています。
問 あなたは誰ですか。
答 私は神さまの子どもです。
子どもたちがこれから神を信じる子どもとして成長していってほしいというときに、自分は神さまの子どもにして頂いたという事実を何よりも知ってほしい、という願いに満ちた言葉です。私は神の子。神に愛されている子ども。その事実は、キリストを信じる私たちすべての者に当てはまります。
私たちは、本当であれば「わが民ではない者」と神さまに言われなければならない者です。しかし、神さまは私たちをご自分の子どもにしてくださいました。奴隷であった私たちを、ご自分の子として迎えてくださいました。その事実、キリストの恵みによってひらかれた事実を喜んで受け入れて、神の子としての一日を歩んでいきましょう。
私たちは喜びをもってこの問いを聞くし、またその答を知っています。「あなたは誰ですか?」

2024年7月10日水曜日

2024年7月10日の聖句

これから後も私が神である。私の手から救い出せる者はない。私が実行すれば、誰が元に戻せようか。(イザヤ43:13)
ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。(1コリント3:21,23)

もしも、どこかの会社の新入社員が社長に向かってお前呼ばわりしたり、上司に向かって小間使いのように命令したりしたら、会社の秩序が保てなくなってしまいます。人間同士であれば私たちは常識的にそのような無礼な振る舞いは基本的に慎みますが、神さまが相手になると、少し様子が変わってしまうところがあるかもしれません。
「私が神である。」主は断乎としてそのように宣言なさいます。永遠の昔から、そしてこれから後もこのお方こそが神。すべてのものの支配者、世界の王。
しかし私たちは神を王として崇め、尊敬しているでしょうか。神さまを神さまらしく敬っているでしょうか。もしかしたら人間にするよりももっと無礼に神さまにふるまってはいないだろうか。今日の御言葉を読み、そのようなことを考えさせられます。
人間を誇るな、と聖書は言います。自分自身を誇ったり、人間の力や知恵を礼賛して全幅の信頼を置いたりしてはならない。すべては神のものだから。私たちは、神こそこの世界をお造りになり、支配しておられるまことの王と心から信じ、それにふさわしく生きているのでしょうか。
私たちはキリストのものです。だから、キリストは私たちのためにご自身を献げてくださいました。命を受けた者として、こんなに罪深く神から遠く離れているのに恵みを頂いた者として、神を礼拝し、神の御前にひれ伏して歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福に生かされる幸いを、今日、畏れつついただきましょう。

2024年7月9日の聖句

神が私たちを憐れみ、祝福してくださいますように。(詩編67:2)
(イエスは)子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。(マルコ10:16)

神は私たちを祝福してくださっています。その事実を私たちは信じています。主の日の礼拝も、最後は祝福で閉じられます。昔は、あの礼拝の最後のプログラムを「祝祷」と呼んでいました。しかしあそこでしているのは祝福を願う祈りではなく、神からの祝福の宣言なので、「祝祷」ではなく「祝福」と改められました。神は、私たちがそれを祈り求める前から私たちを祝福してくださっている。その祝福の事実を私たちは信じる。
私たちの毎日の生活の上で例え何が起きたとしても、どんなに厭なことがあったとしても、神が祝福してくださっているという事実は揺らぎません。
主イエス・キリストは子どもたちを抱き寄せて、手を置いて祝福してくださいました。その祝福の手は私たちにも伸ばされています。私たちのことをも、キリストは神の子どもたちとして祝福してくださっています。
ここのところで私がとても好きなのは、主イエスが子どもたちに置いた「手」ですが、原語では複数形で書かれています。即ち、主イエスは子どもたちを抱き寄せて、その子たちの頭にご自分の両手を置いて祝福なさった。抱き寄せて両手を置いたということは、膝の上に乗せたということだと思います。主イエスの膝に抱かれて、頭の上に両手を置いて頂いている!なんと嬉しいことでしょう!そうやってキリストは私たちを祝福してくださっています。今も!
「神が私たちを憐れみ、祝福してくださいますように。」この祝福は、私たちが御言葉を聞く今ここで、実現しているのです。

2024年7月8日月曜日

2024年7月8日の聖句

あなた方の目は主の行われた大いなる業をことごとく見た。(申命記11:7)
私たちの主イエス・キリストの力と来臨とをあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。(2ペトロ1:16)

目撃者の言葉を、証言と呼びます。主イエス・キリストの力と来臨の目撃者、証人として、使徒ペトロは私たちに語ります。見たことを話しているので、巧みな作り話をする必要もないし、嘘をつく必要もない。自分が見たこと、聞いたことをそのまま話したのだ、とペトロは言います。私たちが今聞いている福音は、そうやって使徒たちが見て聞いたことが連綿と伝えられて私たちにまで至ったものに他ならない。
そして、それと同時に教会が2000年間語り続けてきたことは、この2000年間に信仰に生きた無数の人々の主イエス・キリストとの出会いの言葉でもあります。私たちもペトロたちが証言するキリストと出会い、その威光に生かされてきた。「あなた方の目は主の行われた大いなる業をことごとく見た。」と言われているとおりです。私たちもその証人として、自分の経験した神の恵みを証ししています。
私たちは御言葉を証しします。どのようなときにも。例えあらゆる秩序が崩れたときにも、私たちはそれをやめるわけにはいかない。神に託された証人としての務めだからです。キリストの恵みを証しし、それを隣人に届けるために、私たちもキリストの力と来臨の証人にして頂いているのです。

2024年7月7日日曜日

2024年7月7日の聖句

今週の聖句:
あなたを造られた主は今言われる。恐れるな、私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。(イザヤ43:1)

今日の聖句:
悪しき者が自分の行った悪に背を向け、公正と正義を行うなら、彼は自分の命を救う。(エゼキエル18:27)
たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。(マタイ16:26)

主イエス・キリストが私たちを招いてくださっています。「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。」だから神に立ち帰れ、と主イエスさまは私たちを呼んでおられます。神の御もとに立ち返って、自分の命を損なうことなく生きよ。キリストの招きです。
旧約も私たちへの神の招きの言葉です。「悪しき者が自分の行った悪に背を向け、公正と正義を行うなら、彼は自分の命を救う。」例えこれまで悪を行ってきたとしても、その悪に背を向け、神に向かって生き、公正と正義を行うなら、その人は自分の命を救う。神がその人を救ってくださる、と言います。悪を捨てて神の御もとに立ち返れ、と私たちを招いています。
神さまは私たちの過去の過ちや罪を忘れてくださる方です。それが、赦すということです。神さまはいつまでも執念深く追求するようなことはなさらない。私たちの罪も咎も忘れ、今立ち返ることを喜んで受け入れてくださる憐れみに満ちたお方です。今、私たちは神の御許に帰りましょう。

2024年7月6日土曜日

2024年7月6日の聖句

いと高き方を隠れ場とする者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げる。
「わが逃れ場、わが城、わが神、わが頼みとする方」と。(詩編91:1~2)
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。(使徒26:22)

主イエスが私たちに教えてくださった祈りでは、このように祈るように言われています。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」主イエスは、救ってください、助けてくださいと祈ることを教えてくださいました。主イエスは、「絶対に逃げるな」とか「どんなときにも弱音を吐くな」とはおっしゃいません。神さまに「助けてください」「救ってください」と祈っていい。むしろ、神ご自身が私たちのそのような祈りを待っていてくださる。
「いと高き方を隠れ場とする」「全能者の陰に宿る」と言っています。神を逃れ場とし、頼みとして生きることが私たちには許されている。何という安心であり、なんとありがたいことでしょうか!
隠れ場とか陰とか逃れるとか言うと、キリスト教は弱虫の宗教だと言われてしまいそうです。しかし、それでいいと思います。自分が弱虫であることを認めないわけにはいかない。私たちには神の助けが必要だし、しっかり立つために神に支えて頂かなくてはならない。そうであるからこそ、私たちは「小さな者にも大きな者にも証しを」します。神の助け、神の救いを。この方は私たちの弱い日にも見捨てず、私たちの立ち上がれないときにも救ってくださる方です。それは私たちが神の前に自分の力で救われるのではなく、ただ神の憐れみと恵みによってだけしか救われえないことを私たちが深く知るためです。この神の恵みは、弱くて惨めな私たちを決して放ってはおかないのです。

2024年7月5日金曜日

2024年7月5日の聖句

主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。(詩編115:11)
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(マタイ6:26)

「空の鳥」と主イエスはおっしゃいます。ルカによる福音書の並行箇所を読むと、どうやらこの「鳥」は烏のようです。しかし、マタイが私たちに伝えている、単なる「鳥」という言い方にも魅力を感じます。烏だけではなく、いろいろな種類の鳥を考えてみることも許されているのではないかと思います。
私たちの身近にもいろいろな鳥がいます。カラスもスズメもいればツバメもいますし、メジロを見ることもあります。ツバメのような渡り鳥は、季節毎に、信じられないほど長い距離を飛んでいます。私たち人間が行かないような場所を飛ぶし、絶海の小さな岩礁か何かで羽を休めることもあるのかもしれません。その営みは私たちの思いを遙かに超えている。その小さな鳥の一羽を養ってくださっているのは、天の父である神さまだと主イエスはおっしゃいます。「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
神が鳥を養っておられる営み一つを考えるだけでも、私たちの想像を遙かに超えます。増して、この世界に生えている無数の花々を美しく装い、たくさんの動物や魚を支える神の御業は途方もない。主なる神の御業を想像するだけで、それは、恐ろしいほどの力です。
「主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。」主なる神さまへの信頼。恐ろしいまでの力をもって、神はこの私をも生かし、支え、今日も命を与えてくださっている。この神を信頼し、神の父としての慈しみを信じて生きてほしい。御言葉は私たちにそう語りかけています。

2024年7月4日木曜日

2024年7月4日の聖句

幸いな者、弱い者を思いやる人は。
災いの日に、主はその人を救い出してくださる。(詩編41:2)
善い行いと施しとを忘れてはなりません。このようないけにえこそ、神は喜ばれるのです。(ヘブライ13:16)

弱い人に向かう神さまのまなざしは、私たちの思いを遙かに超えています。例えば申命記第24章5節以下を読むと、質草や担保の品によって貧しい人を苦しめてはならないと定められています。石臼を質草にしてはいけない。臼がないとパンを作れないからです。貧しい人に金を貸すときに上着を担保にしたなら、夜になったら返してやれ、とも言われています。そうでないと彼が凍えてしまうから。あるいは貧しい雇い人を低賃金で虐げてはならない、とも命じられています。実際に旧約の舞台になった社会の中でそれらが実現されていたのかどうかは分かりません。このように命じなければならない現実があった、ということなのかもしれない。しかし、現代社会でも問題になっているような事柄について、聖書自体は現代よりもずっと先を進んでいることは確かです。
「幸いな者、弱い者を思いやる人は。」なぜか。「災いの日に、主はその人を救い出してくださる。」主ご自身がその思いやりを憶えていてくださる。主が報いてくださる。だから、お返しのできない人を思いやるあなたは幸いだ、と言うのです。
「善い行いと施しとを忘れてはなりません。このようないけにえこそ、神は喜ばれるのです。」神は私たちの愛の業を喜んでくださいます。例えそれが小さくても、神ご自身が御心に留め、喜んでくださることを信じて、その小さなことに忠実でありたいと願います。主イエス・キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2024年7月3日水曜日

2024年7月3日の聖句

あなたがたの衣でなく心を裂き、あなたがたの神、主に立ち帰れ。(ヨエル2:13)
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(1コリント6:20)

衣を裂くというのは、聖書にしばしば出て来る悲しみや悔い改めを象徴する行為です。しかし、きっと一種のポーズのようになってしまう嫌いがあったのでしょう。単なる一つの所作として、周囲や神さまに見せる格好として衣を裂いてみせる。見せかけの悔い改め。「衣を裂く」という行為だけではなく、祈りにおいてでも、語る言葉においてでも、私たちにもいくらでも起こってしまう現象です。
それで、預言者ヨエルは言います。「あなたがたの衣でなく心を裂き、あなたがたの神、主に立ち帰れ。」衣を裂いてみせて形の上で悔い改めてみせるのではない。あなたの心を引き裂け、と言います。心から、真剣に、神の御前に悔い改めよ、と訴えています。
神さまが私たちに求めておられる悔い改めは、そういう祈りに違いありません。私たちが心を裂いて真剣に悔い改め、神様の御前に本気でへりくだること。神が求めておられる祈りはこれです。
私たちがそのような祈りをしうるのは、主イエス・キリストが私たちを愛してくださったからです。キリストが私たちのために十字架におかかりになったからです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」キリストがその体を裂き、血を流して、私たちを買い取ってくださった。その事実に打たれて、私たちはこのお方の御前に悔い改めの祈りをささげる。この心を裂いて。私たちの祈りはキリストの御前で始まります。

2024年7月2日火曜日

2024年7月2日の聖句

主を愛する者たちは、日の出の勢いを得る。(士師記5:31)
(イエスの言葉)あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。だから、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。(マタイ5:14,16)

現代を生きる私たちが知らないことの一つは、光のありがたさ、特に朝のすばらしさであるのかもしれません。夜の闇が終わりを告げ、空が白み始めるとき、昔の人々はどんなにかほっとして喜びつつ空を仰いだことでしょう。昇る太陽をどんな思いで仰いだことでしょう。光に包まれることは、毎朝訪れる救いの経験そのものだったのではないでしょうか。
「主を愛する者たちは、日の出の勢いを得る。」今日の御言葉はそのように語りかけます。日の出のように、主を愛する者たちは昇っていく。日の出の勢い!主を愛するからです。自分の内を見つめても分からない力。昇り行く太陽のようなキリストの復活の命が与えてくださる勢いです。
太陽のようにキリストは私たちを照らし、ただ照らすだけではなくて私たち自身をも光としてくださいます。私たち自身も闇夜を照らす光になっている。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。だから、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。」私たちがキリスト者として生きているという事実を、キリストは、その周囲を照らす光としてくださっている。あなたの周りはあなたから放たれるキリストの光によって照らされています。
朝の光の中、光からの光でいらっしゃるキリストを仰ぎましょう。キリストを賛美しつつ、今日の歩みを進んでいきましょう。

2024年7月1日月曜日

2024年7月1日の聖句

月の聖句:
訴訟において多数者に合わせて答弁し、判決を曲げてはならない。(出23:2)

今日の聖句:
恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。(詩編106:1)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3;17)

私たちの神に献げる心は、感謝。主イエス・キリストにあって、私たちは父なる神に感謝をささげます。神の恵み深いことのゆえに、私たちは神に感謝をささげる。神の慈しみはとこしえに絶えることがないから、私たちは神に感謝をささげます。
私たちの周りには、きっと、私たちが気付いている以上にたくさんの神の恵みが溢れているのだと思います。私たちが知っている以上にたくさんの神の慈しみがあるのだと思います。それはとても控えめで、よく注意していないと見逃してしまう。しかし本当は、感謝すべきことはたくさんあるはずです。
7月になったので、今日は7月の聖句も併せて掲げられています。「訴訟において多数者に合わせて答弁し、判決を曲げてはならない。」神さまがこのように命じてくださる方であるという事実も、感謝すべき恵みであると思います。多数者におもねることが現実的だとはおっしゃらない方です。私たちの信じる神は、少数者であっても、正しいことを正しいとすることを良しとしてくださる神です。このお方と正義と公正の中で、今日も私たちは生かされ、神の憐れみによって命をつないで頂いています。
今日は、この年の後半の歩みが始まる日。神の恵みと慈しみを探す一日を、過ごしてみませんか?

2024年9月8日の聖句

今週の聖句: 一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7) 今日の聖句: 優れた分別と知識を私に教えてください。私はあなたの戒めを信じています。(詩編119:66) (テモテへのパウロの手紙)愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの...